本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。譲渡を決めた経営者が、最後まで気にし続けるのは従業員のことです。価格の話が終わった後でも、契約の直前でも、「あの子たちはどうなるのか」という問いは戻ってきます。この問いに、確かめた事実で答えられるかどうかが、仲介者の仕事の質を決めます。ここでは、買い手の雇用と処遇の考え方をどう確認し、どこまでが約束になり、どう伝えるかを整理します。労働条件の変更や契約条項の効力については、社会保険労務士・弁護士にご確認ください。

なぜ、この確認を早い段階で行うのか

雇用の話を後回しにすると、終盤で案件が揺れます。理由は三つあります。

  • 売り手の判断軸そのものだから:価格より雇用を優先する経営者は珍しくない。軸を知らずに条件を整えても、最後に選ばれない
  • 買い手の考えが固まっていないことがあるから:検討の初期では、処遇まで具体化されていない。早く聞くことで、相手にも考えてもらう時間ができる
  • 従業員への説明の設計に必要だから:いつ、誰から、何を伝えるかは、買い手の方針が分からないと決められない

また、確認が早いほど、条件として交渉できます。契約の直前に「拠点を統合する予定です」と出てくると、売り手は覆せない立場に置かれます。交渉できる時期に論点を出すこと自体が、売り手の利益を守る行為です。

なお、買い手にとっても、雇用の考え方を早く言葉にすることには利点があります。承継後に現場を動かすのは従業員であり、その人たちの不安を減らす計画は、統合の成否に直結するためです。確認は相手を問い詰める行為ではなく、双方が承継後を具体化する作業だと位置づけてください。

面談で確かめる項目

次の項目を、面談で具体的に伺います。抽象的な「雇用は守ります」で終わらせず、どの範囲でどう考えているかまで聞いてください。

項目聞くこと
雇用の継続承継時に雇用を継続する方針か。継続しない可能性のある職種はあるか
労働条件賃金・賞与・休日・退職金の制度を当面どう扱うか。統合の時期の見込み
役職と権限幹部の役職をどう扱うか。現場の指揮系統を誰が担うか
勤務地拠点の統廃合の予定があるか。通勤への影響
制度の統合就業規則・評価制度・社会保険の手続をいつ頃、どう揃えるか
説明の仕方従業員への説明に、買い手側の誰が出席するか。質疑にどう答えるか

回答が「まだ決めていない」であることも多く、それ自体は問題ではありません。決まっていないことを、決まっていないと共有するほうが、後の食い違いを防げます。その場合は、いつ頃までに整理できるかを確認し、売り手にはその見込みを含めて伝えます。

聞き方としては、「売り手が最も気にされている点なので、現時点のお考えを伺えますか」と前置きするのが自然です。多くの買い手は、この論点が重要であることを理解しています。

約束できることと、できないことを分ける

実務でいちばん危ないのは、面談での前向きな発言を、そのまま「約束」として売り手に伝えてしまうことです。区別のしかたを整理します。

  • 契約に書ける事項:一定期間の雇用の継続、労働条件を直ちに不利益に変更しないこと、といった内容を条項として定める例がある。効力と書き方は弁護士の判断領域
  • 努力や方針として語られる事項:「当面は現状のまま」「できるだけ拠点は残したい」といった発言。事情が変われば変わり得る
  • そもそも約束できない事項:将来の業績に左右されること、従業員本人の選択に関わること

売り手に伝えるときは、この三つを言い分けてください。「契約書にこう書く方向で協議しています」「これは現時点のお考えとして伺っています」という言い方の違いが、後の受け止め方を変えます。

なお、株式譲渡と事業譲渡では、従業員の雇用の扱いが手続として異なります。事業譲渡では、個々の従業員の同意が必要になるなど、実務上の手順が変わります。案件の形によって説明が変わるため、「事業譲渡案件の実務」を確認し、具体的な手続は弁護士・社会保険労務士にご確認ください。

従業員への説明の順番と時期

雇用の確認は、従業員への説明の設計とつながっています。順番を誤ると、確認した内容が意味を失います。

  • 原則は契約の締結後:検討段階で伝わると、動揺や離職につながり、案件そのものにも影響する
  • 幹部への説明を先に行うことがある:引継ぎに不可欠な人には、時期を早める判断もある。範囲は売り手と協議して決める
  • 伝える人は売り手の経営者:従業員が聞きたいのは、長く一緒に働いてきた人の言葉
  • 買い手が同席するかを事前に決める:顔が見えることで不安が下がる場合もあれば、初回は売り手だけのほうがよい場合もある
  • 質問への答えを用意しておく:雇用、給与、勤務地、社名、上司。想定問答を事前に作る

詳細は「従業員への開示のタイミング」にまとめています。ここで強調したいのは、説明会の質は、その前の確認作業で決まるということです。買い手の方針を確認していなければ、質問に答えられません。答えられない説明会は、従業員の不安を大きくします。

売り手への伝え方|誇張しない

最後に、伝え方です。原則は一つ、誇張しないことです。

  • 買い手の発言は、発言として伝える。「雇用は守ると言っていました」ではなく「現時点では雇用を継続する方針だと伺いました」
  • 契約に書ける範囲は、協議の状況とともに伝える
  • 決まっていないことは、決まっていないと伝える
  • 不利な見込み(拠点の統合、制度の統一)も、同じ温度で伝える

売り手を安心させたい気持ちから、前向きな話だけを伝えたくなります。しかし承継後に食い違いが起きたとき、従業員に向き合うのは売り手だった人です。その人に嘘をつかないことが、この仕事の最低条件だと考えてください。

そして、雇用の話を丁寧に扱うことは、案件にとっても有利に働きます。従業員の不安が小さいほど、承継後の混乱は小さく、事業は続きます。事業が続くことは、買い手にとっても、残る従業員にとっても、そして自分の会社を託した売り手にとっても、いちばん望ましい結果です。雇用の確認は、関係者全員の利益がそろう数少ない論点です。手間を惜しまずに行ってください。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものであり、個別案件における法的・税務的な判断は、弁護士・税理士等の専門家にご確認ください。

よくあるご質問

A.踏み込みすぎではありません。売り手が最も重視する論点であり、承継後の運営にも直結するため、買い手にとっても早く言葉にしておく意味があります。「売り手が最も気にされている点なので、現時点でのお考えを伺えますか」と目的を添えて聞けば、多くの買い手は率直に答えてくれます。
A.そのままでは約束になりません。契約に条項として書くのか、方針として述べられているのかを区別し、売り手にもその違いを伝えてください。条項として定める場合の書き方や効力は弁護士の判断領域です。発言を約束として伝えてしまうと、後の食い違いがそのまま売り手の負担になります。
A.原則は最終契約の締結後です。検討段階で伝わると動揺や離職につながり、事業にも案件にも影響します。ただし、引継ぎに不可欠な幹部には時期を早める判断もあり得ます。誰に、いつ、誰から伝えるかは売り手と協議して決め、想定される質問への答えを事前に用意しておいてください。
A.手続が変わります。株式譲渡では会社がそのまま存続するのに対し、事業譲渡では雇用の承継にあたって個々の従業員の同意が必要になるなど、実務上の手順が異なります。案件の形によって説明すべき内容が変わるため、具体的な手続は弁護士・社会保険労務士にご確認のうえ、売り手への説明を組み立ててください。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら