本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。株式譲渡契約には、譲渡した後に売り手が同じ事業を行わない旨の定め、いわゆる競業避止義務が置かれるのが一般的です。買い手にとっては買ったものを守るための条項ですが、売り手にとっては譲渡後の人生の選択肢を狭める条項でもあります。ここを機械的に「通例どおり」で流すと、あとになって「そんなつもりではなかった」という不信が生まれます。本稿では、三つの軸をどう組み立て、どの順番で説明するかを整理します。契約全体の論点は「最終契約(SPA)の交渉実務」を併せてご覧ください。
何のための条項かを、先に共有する
この条項の目的は、買い手が支払った対価に見合うものを受け取れるようにすることです。中小企業のM&Aでは、事業の価値が経営者個人の人脈や技術に強く結びついていることが少なくありません。譲渡した翌月に前オーナーが同じ商圏で同じ事業を始め、取引先と従業員が付いていってしまえば、買い手が買ったものは実質的に残りません。競業避止義務は、その事態を防ぐために置かれます。
逆に言えば、その目的を超える範囲まで縛る合理性はありません。実務で交渉になるのは、ほとんどが「目的に照らして広すぎないか」という点です。仲介者は、買い手には「何を守りたいのか」を、売り手には「譲渡後に何をしたいのか」を先に聞いておきます。両者を聞いてから条文の話に入ると、文言の押し引きではなく、目的に沿った範囲の話し合いになります。
なお、競業避止義務の定めがどこまで有効と判断されるかは、目的の正当性、代償の有無、制限の範囲などを踏まえた法的な評価によります。有効性の判断は弁護士の領域であり、仲介者が「この範囲なら有効です」と保証することはできません。
三つの軸 — 期間・地域・業務範囲
条項は、次の三つの軸の組み合わせでできています。どれか一つが広いから悪いのではなく、三つを掛け合わせた面積で見ます。
| 軸 | 決めるときに見ること | 広げすぎのサイン |
|---|---|---|
| 期間 | 買い手が取引先・従業員との関係を引き継ぐのに要する時間。引き継ぎ期間や顧客の更新サイクルから逆算する | 目的の説明がつかないまま年数だけが長い |
| 地域 | 実際の商圏。店舗型なら近隣、広域に顧客がいるなら都道府県単位など | 事業実態のない地域まで含む、あるいは地域の限定がない |
| 業務範囲 | 譲渡した事業と競合する内容。業種名で広く括るか、具体的な商材・サービスで書くか | 売り手の経験が活きる分野をすべて封じる書き方 |
加えて、しばしば同じ条項の中に置かれるのが勧誘の禁止です。従業員を引き抜かない、取引先を誘わない、という定めで、競業そのものの禁止より受け入れやすいことが多く、交渉の落としどころになります。「同業で働くこと自体は妨げないが、この会社の人と取引先には声をかけない」という形であれば、買い手が本当に守りたいものは守れて、売り手の職業選択の幅は残ります。
売り手のその後の人生を縛りすぎない
仲介者が意識して確認すべきなのは、売り手の譲渡後の予定です。初回面談の段階で聞いていることが多いはずですが、契約条件を詰める段階でもう一度、具体的に確認します。
- 引退するのか、何らかの形で働き続けたいのか
- 子や親族が同業・関連業種で働いている、あるいは別会社を持っていないか
- 業界団体の役職、講師、技術指導など、事業とは言えないが関わりが続く活動はないか
- 個人で保有している不動産を同業者に賃貸している、といった間接的な関わりはないか
- 譲渡対象から外す会社や事業があり、それが条文の範囲に触れないか
実際に問題になりやすいのは、本人が同業を始めるケースよりも、親族の事業や、引退後に頼まれて始めた小さな活動が条文に触れてしまうケースです。「そこまで禁じる意図はなかった」と買い手が言う内容であっても、条文がそう書いてあれば争いの種になります。先に洗い出して、除外を明記するか、条文の範囲を絞るかを決めておきます。譲渡対象から外す資産の整理は「個人資産と法人資産の切り分け」も参照してください。
対価との関係と、違反したときの定め
競業避止義務は、譲渡対価の中に織り込まれていると説明されることが一般的です。引き継ぎ期間に売り手が顧問等として関与する場合は、その報酬の中に含めて考えることもあります。いずれにせよ、何の対価として引き受けるのかを、売り手が理解している状態を作ります。
違反したときの定めは、損害賠償のほか、違約金の額をあらかじめ決めておく形、差止めを求められる旨を書く形などがあります。金額を先に決めておく形は分かりやすい反面、金額の水準によっては争いになり得ます。どの形にするか、どの水準にするかは、弁護士に確認して決める事項です。
仲介者が果たす役割は、双方の言い分を条文の言葉に翻訳する前段階、すなわち「何が起きたら困るのか」を具体的な場面で言語化させることです。「同業を禁止する」ではなく「A社とB社との取引を持っていかれると困る」という水準まで買い手の懸念を降ろせれば、条文は自然と必要な範囲に収まります。
説明の順番 — 条文を渡す前に話す
この条項は、契約書の束の中に紛れて渡すと、売り手が内容を理解しないまま署名する危険があります。当社では、次の順番で説明します。
| 順 | 伝えること |
|---|---|
| 1 | なぜこの条項が置かれるのか(買い手が守りたいものは何か) |
| 2 | いま提示されている案は、期間・地域・業務範囲がどこまでか |
| 3 | それによって、譲渡後にできなくなることの具体例 |
| 4 | ご予定と照らして支障がないか。支障があるなら、どこを動かしたいか |
| 5 | 条文の最終的な評価は弁護士に確認していただくこと |
3番目を飛ばさないことが要点です。「競業避止義務が5年間つきます」と言っても、多くの方にとっては自分の生活と結びつきません。「たとえば、同じ市内で同じ業種の会社に顧問として入ることも、この文言だと対象になり得ます」と場面で示して初めて、判断の材料になります。売り手が納得しないまま調印した条項は、後で守られません。守られない条項は、買い手の保護にもならないのです。双方が納得して続く取引にするために、ここは時間をかける価値があります。
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