本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。M&Aの交渉では、数か月にわたって少しずつ条件が決まっていきます。トップ面談での会話、電話でのやり取り、往復するメール。そこで決まったことが最終契約に正しく反映されなければ、当事者は「そんな話はしていない」と感じます。この食い違いは、たいてい最も後戻りしにくい終盤に表面化します。ここでは、合意を取りこぼさずに運ぶための管理方法を書きます。工程全体の管理は「案件のスケジュール管理」を参照してください。

「言った・言わない」は、終盤にまとめて出てくる

食い違いが起きる原因は、記憶力ではありません。次のような構造的な理由です。

  • 条件が一度に決まらず、何回かに分かれて少しずつ固まる
  • 決まり方に濃淡がある。「そうしましょう」と明確に決めたものと、「そういう方向でしょうね」と流れただけのものが混ざる
  • 話した相手が毎回同じとは限らない。買い手側は担当者と決裁者、売り手側は経営者と後継者・家族が入れ替わる
  • 前提が変わると、過去の合意の意味も変わる。価格が動けば、支払い方法の合意も影響を受ける

そして、これらがまとめて顔を出すのが最終契約の文案を突き合わせる段階です。ここで「聞いていない」が出ると、残りの日程が短いために、押し合いになるか、片方が飲み込むかになります。どちらも後味が悪く、成約後の関係に残ります。仲介者の仕事は、この場面を作らないことです。

論点管理表の作り方

案件ごとに一枚、論点管理表を持ちます。表計算ソフトで十分です。列は次のように置きます。

書く内容要点
論点「役員退職金の金額」「引き継ぎ期間の長さ」など、一行で言える単位に割る大きすぎる粒度にしない。「従業員の処遇」ではなく項目ごとに分ける
経緯いつ・どの場で・誰が何と言ったか日付と発言者を必ず入れる。要約しすぎない
状態合意・仮合意・保留・取り下げの四つから選ぶ言葉を四つに固定する(次の節)
根拠その条件の背景にある数字・資料・事情根拠が書けない合意は、後で揺れる
次の行動誰が・いつまでに・何をするか個人名と日付まで書く
反映先基本合意書の第何条、最終契約の第何条ここが空欄のまま終盤に入ると事故になる

この表の価値は、「反映先」の列にあります。合意した内容が、どの文書のどこに書かれることになるのかを一つずつ埋めていくと、契約の文案が出てきたときに突き合わせるだけで済みます。空欄が残っている行が、そのまま抜け落ちる候補です。

状態の言葉を四つに固定する

「だいたい決まっています」という報告をなくすために、状態の言葉を四つに固定します。社内でも、当事者への説明でも、同じ言葉を使います。

  • 合意:双方が明確に了解し、書面で確認できる状態にある。議事メモや往復のメールで裏が取れる
  • 仮合意:方向性は一致しているが、他の条件次第で変わりうる。または片方の社内決裁が残っている
  • 保留:今は決めない、と双方が了解している。いつ決めるかを必ず併記する
  • 取り下げ:一度出たが撤回された。削除せず、履歴として残す

「取り下げ」を消さずに残すのが、地味ですが効きます。後になって「あの話はどうなったのか」と誰かが思い出したとき、経緯が残っていれば「◯月◯日に、こういう理由で取り下げられました」と即答できます。記録がないと、もう一度議論が始まってしまいます。

また、「仮合意」を「合意」と報告しない規律が重要です。社内で案件の進捗をよく見せようとして仮合意を合意と呼ぶと、その差が終盤で表面化します。状態を正直に書ける文化があるかどうかは、仲介会社の実力に直結します。

どの段階で、どの文書に移すか

合意は、段階ごとに置き場所を変えていきます。口頭のまま長く置かないのが原則です。

段階置き場所移すときの要点
面談・協議の直後議事メモ当日中に双方へ送る。合意事項・保留事項・宿題の三つを立てる
条件が一巡した時点条件整理のまとめ(条件一覧)価格以外の条件も並べる。双方に同じものを渡す
基本合意基本合意書この時点の合意を明文化する。書けないもの(未定の条件)は「未定」と書く
デューデリジェンス後条件見直しの記録指摘を受けて変わった条件は、変更前と変更後を並べて残す
最終契約契約書管理表の「反映先」と条文を突き合わせる

基本合意書に「未定」と書く勇気が実務では重要です。決まっていないのに決まったように書くと、後で解釈の争いになります。「◯◯については、デューデリジェンス完了後に協議のうえ決定する」と書いておけば、双方が同じ理解で進めます。基本合意書の条項設計は「基本合意書の主要論点とドラフティング」を参照してください。

更新の頻度と、共有の範囲

運用のルールを三つ決めておきます。

  • 更新は、動いた日のうちに:週末にまとめて書こうとすると、細部が落ちます。面談や電話の直後に、五分で一行足す習慣にします
  • 社内の共有は全体、当事者への共有は自分側の分だけ:管理表には双方の事情が書かれています。当事者に渡すのは、その当事者に関わる部分と相手に伝えてよいと了解された内容だけです。片方の検討の経緯や許容範囲を、そのまま他方へ渡してはいけません
  • 担当を離れるときは、表ごと引き継ぐ:異動や休暇で担当が代わるとき、頭の中にしかない経緯は消えます。表が整っていれば、引き継ぎは一時間で済みます

二つ目は、仲介という形態で双方の間に立つ以上、最も厳格に守るべき点です。管理のための道具が、情報の管理を緩める原因になっては本末転倒です。当事者へ共有するファイルは、都度必要な範囲だけを抜き出して作るようにしてください。

この管理を続けていると、案件の終盤が驚くほど静かになります。最終契約の文案を受け取ったとき、管理表と一行ずつ突き合わせるだけで確認が終わり、「聞いていない」が出ません。交渉の巧拙よりも、この地味な作業のほうが、案件を最後まで穏やかに運ぶ力になります。

本稿は仲介実務の一般的な型を解説するものです。契約条項の解釈や個別案件における法的な適用は弁護士に、税務の取り扱いは税理士にご確認ください。アドバイザーは法律事務・税務代理を行いません。

よくあるご質問

A.当日中です。翌日以降になると、双方の記憶の食い違いがそのまま固まってしまいます。書く内容は、合意したこと、保留にしたこと、次に誰が何をいつまでにやるかの三つです。長く書く必要はなく、一枚で足ります。送ること自体が、認識を揃える作業になります。
A.決まっていないことを決まったように書くよりは、はるかに安全です。「調査の完了後に協議のうえ決定する」と明記しておけば、双方が同じ理解のまま進められます。曖昧な表現で埋めてしまうと、後から解釈をめぐって争いになり、終盤で時間を失います。条項の具体的な書き方は弁護士にご確認ください。
A.そのまま渡してはいけません。管理表には双方の検討の経緯が書かれており、一方の許容範囲や社内事情を他方に無断で渡すことは、仲介者として行ってはならない行為です。共有する場合は、その当事者に関わる部分と、相手に伝えてよいと了解された内容だけを抜き出して別に作ります。
A.だからこそ記録を残します。面談や協議の内容、決まったこと、保留していること、その理由までを案件ごとに書面で管理しておけば、担当が代わっても経緯は失われません。記録が個人の頭の中にしかない状態は、お客様にとって不安であるだけでなく、案件そのものにとって危険です。

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プラチナパートナーズでは、記録を残し、認識を揃え、終盤で慌てない進め方ができるアドバイザーを募集しています。M&A業界が初めての方も、実務の型から丁寧に教えます。
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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら