決済が終わり、株式を引き渡し、長年経営してきた会社を手放す。M&Aの手続としては、ここが終着点です。しかし、売り手と買い手の関係は、この日で完全に切れるわけではありません。

最終契約には、クロージング後も売り手を拘束する条項がいくつも置かれています。競業避止、秘密保持、勧誘禁止、引き継ぎへの協力、そして補償請求への対応。これらは譲渡後のご自身の行動や生活設計に直接関わるにもかかわらず、契約交渉では価格や表明保証ほど注目されない傾向があります。本稿では、成約後に残る義務の中身と、確認しておきたい点を整理します。

競業避止義務|「同じ商売をしない」約束の範囲

成約後の義務のなかで、最も実生活に影響するのが競業避止義務です。譲渡した事業と競合する事業を、一定の期間、一定の地域で行わないという約束にあたります。

買い手の立場に立てば、この条項の必要性は明らかです。買い手は事業の収益力を買っています。もし売り手が翌月に同じ事業を隣で始め、従業員と取引先を連れて行ってしまえば、買ったものの価値は失われます。だからこそ、この条項は必ずと言ってよいほど置かれます。

売り手として確認すべきは、次の四点です。

確認事項見るべき点
期間クロージングから何年間か。起算日はいつか
地域全国か、特定の都道府県か、事業を行っていた地域に限られるか
事業の範囲「対象会社が行っていた事業」なのか、より広い業種全体を指すのか
行為の態様自ら営むことだけか、他社への出資・役員就任・従業員としての勤務まで含むか

特に注意したいのが四段目です。「直接又は間接を問わず」「役員、従業員、コンサルタントその他いかなる立場においても」といった文言が入っていると、引退後に知人の会社を手伝う、後進の相談に乗る、といった行為まで抵触する可能性が出てきます。

「引退するから関係ない」と思われるかもしれません。しかし、譲渡後に時間ができ、業界の知見を活かして何かをしたくなることは珍しくありません。契約交渉の段階で、ご自身の今後の予定を率直にアドバイザーへ伝えてください。予定が具体的であれば、その活動を例外として明記する交渉も可能です。

なお、競業避止義務の範囲が過度に広い場合の有効性については法的な論点があります。条項の評価は弁護士等の専門家にご確認ください。

勧誘禁止と秘密保持

競業避止と並んで置かれるのが、勧誘禁止義務と秘密保持義務です。

勧誘禁止(ノン・ソリシテーション)

対象会社の従業員を引き抜かない、取引先に働きかけて取引を奪わないという約束です。売り手が新たに事業を始めなくても、人材を連れ出せば実質的に価値を損なうため、競業避止とは別に定められます。

ここで論点になりやすいのが、元従業員から自発的に連絡があった場合です。「勧誘」に当たるのかどうか、契約の文言によって解釈が分かれ得ます。売り手側から働きかけていなくても、後から疑念を持たれる余地を残さないよう、行動には慎重さが求められます。

秘密保持

対象会社の技術情報、顧客情報、取引条件などを第三者に開示しない義務です。長年経営してきた会社の情報は、ご自身の頭のなかに蓄積されています。それを他所で語ることが契約違反になり得る——この感覚は持っておく必要があります。

あわせて、M&Aの取引そのものに関する秘密保持も定められるのが通常です。譲渡価格や契約条件を第三者に話さない、公表の内容とタイミングは当事者で合意する、といった内容です。成約後、周囲から「いくらで売れたのか」と尋ねられる場面は必ず訪れますので、どこまで話してよいかを事前に確認しておいてください。

※ 本稿は成約後の義務に関する一般的な実務の考え方をご紹介するものであり、個別の法務アドバイスではありません。条項の効力や解釈は文言と事実関係によって異なります。実際のご検討にあたっては、必ず弁護士等の専門家にご確認ください。

引き継ぎへの協力義務

中小企業のM&Aでは、クロージング後も一定期間、売り手が会社に関与することが一般的です。取引先との関係、現場の勘所、社内の人間関係——これらは書類では引き継げないためです。

関与の形は、顧問、相談役、非常勤の取締役、あるいは契約上の協力義務のみ、と案件によって異なります。確認しておきたいのは次の点です。

期間と頻度。何か月あるいは何年間、週に何日程度の関与が求められるのか。曖昧なまま「必要に応じて協力する」とだけ定められていると、想定以上の拘束が生じることがあります。

報酬の有無と水準。無償の協力義務なのか、顧問料等が支払われるのか。支払われる場合、その額と支払時期はどうなるか。

役割と権限。経営判断に関与するのか、助言にとどまるのか。名刺の肩書はどうなるのか。従業員から見たときの位置づけも含めて、事前に整理しておくとお互いに動きやすくなります。

終わり方。期間満了で自然に終わるのか、双方の合意で延長できるのか。延長する場合の条件はどうか。

この協力期間は、売り手にとって心理的に難しい時期でもあります。かつて自分の会社だった組織で、決定権を持たない立場に身を置くことになるからです。どのように関わり、どのように離れるかを、契約段階で具体的に描いておくことが、双方にとって大切です。詳しくは「引き継ぎ計画の作り方|クロージング後の関与」をご覧ください。

補償請求に備える|資料をどう残すか

成約後の一定期間、売り手は表明保証違反等による補償請求を受ける可能性を負っています。請求を受けることは多くないとはいえ、備えは必要です。

備えの中心は、資料を残しておくことです。具体的には次のものを、補償請求期間が満了するまで保管します。

  • 最終契約書の原本(別紙・開示スケジュールを含む)
  • 基本合意書、秘密保持契約書などの関連契約
  • DDで買い手に提出した資料の一覧と、提出した資料そのもの
  • DDでの質問と回答の記録(いつ、何を聞かれ、どう答えたか)
  • クロージングで授受した書類の写し
  • 決済の入金記録、税務申告に関する資料

特に重要なのが、開示した内容の記録です。補償請求を受けたときに最も強い反論材料になるのは、「その事実はDDの段階で開示済みであり、別紙にも記載されている」という事実だからです。何を開示したかの記録があるかないかで、対応の難易度がまったく変わります。

保管期間は、補償請求期間と税務上の資料保存期間の長いほうに合わせるのが安全です。紙とデータの両方で残し、ご自身以外の誰か(ご家族や顧問の専門家)にも所在を伝えておくことをおすすめします。

また、譲渡対価に関する税務申告の資料も重要です。株式譲渡益の課税については、譲渡の翌年に確定申告が必要になります。取得費を証明する資料は、後から探しても出てこないことがありますので、成約時に整理しておいてください。税務の取扱いは個別の事情によって異なりますので、必ず税理士等の専門家にご確認ください。

経営者保証と個人資産の整理

契約上の義務とは少し性格が異なりますが、成約後に必ず確認したいのが経営者保証の解除です。

会社の借入に個人保証を差し入れている場合、株式を譲渡しただけでは保証は自動的に消えません。金融機関との間で解除の手続を行う必要があります。多くの案件では、クロージングの前提条件として保証解除が組み込まれますが、そうでない場合や、一部の借入について解除が完了していない場合があり得ます。

決済が終わった後で「まだ保証が残っていた」と気づくのは、最も避けたい事態です。会社の経営権を失ったにもかかわらず、借入の保証だけが残るという状態になりかねません。解除の完了を書面で確認し、その書面を保管してください。

あわせて確認したいのが、個人資産と会社資産の整理です。会社が使用している不動産が代表者個人の所有である場合、その後の賃貸借をどうするか。会社名義の車両を個人で使っていた場合の処理。役員貸付金・借入金の清算の完了。生命保険の契約者・受取人の変更。これらは、契約に明記されていなくても実務上は整理が必要な事項です。

クロージング後に行う各種の手続については「クロージング後にやる手続き一覧|登記・許認可・金融機関・社会保険」で網羅的に扱っています。あわせてご確認ください。

まとめ|契約書の後半こそ、自分の生活に関わる

最終契約書を読むとき、経営者様の関心は当然、価格と表明保証に向かいます。しかし、譲渡後のご自身の生活に最も直接的に関わるのは、契約書の後半に置かれた成約後の義務です。

何年間、どの範囲で競業が制限されるのか。どのような形で会社に関わり、いつ離れるのか。どこまで話してよく、何を話してはいけないのか。これらが曖昧なまま署名すると、成約後に「こんなはずではなかった」という思いを抱くことになりかねません。

そして、契約書と関連資料の保管。地味ですが、補償請求期間が終わるまで続く備えです。成約の高揚のなかで整理を後回しにすると、必要になったときに出てこないということが起こります。

当社プラチナパートナーズでは、契約交渉の段階で譲渡企業様の今後のご予定を伺い、成約後の義務が現実的な範囲に収まるよう調整をお手伝いしています。また、成約後に必要となる手続や資料の整理についても、ご案内しています。相談料・着手金・月額報酬は0円です。ご決断を急がせることはありませんので、どうぞお気軽にご相談ください。

よくあるご質問

A.そうではありません。制限されるのは、契約で定められた期間・地域・事業の範囲に限られます。ただし「直接又は間接を問わず」「いかなる立場においても」といった広い文言が入っていると、他社への出資や役員就任、助言活動まで含まれる可能性があります。譲渡後にどのような活動を予定されているかを契約交渉の段階で共有し、必要なら例外として明記する交渉を行うことをおすすめします。
A.多くの最終契約には、取引の内容に関する秘密保持義務が定められています。譲渡価格や契約条件を第三者に開示しない旨や、公表の内容とタイミングを当事者で合意する旨が含まれるのが通常です。どこまで話してよいかは契約の文言によりますので、成約前に確認し、ご家族への説明の範囲についてもアドバイザーを通じて整理しておくと安心です。
A.補償請求期間と、税務上の資料保存期間の長いほうに合わせて保管されることをおすすめします。契約書の原本と別紙、DDで提出した資料の一覧と質問回答の記録、クロージングで授受した書類の写し、決済の入金記録を、紙とデータの両方で残してください。特に「何を開示したか」の記録は、補償請求を受けた際に最も有力な反論材料になります。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら