最終契約を結んでから実際に株式や事業を引き渡すまでには、通常いくらかの期間があります。許認可の手続き、取引先への通知、資金の手当て、登記の準備が必要なためです。
この期間、会社はまだ売り手のものです。しかし買い手は、契約した時点の会社を受け取る前提で金額を決めています。その間に大きな支出をされたり、重要な契約を解約されたりすると、前提が崩れます。
そこで、引き渡しまで通常どおりに運営する義務を定めます。プレ・クロージングの誓約と呼ばれる条項の中心です。
「通常どおり」の中身を書く
「通常業務を継続する」とだけ書いても、何が通常かで解釈が分かれます。そこで、やってはいけないことを具体的に列挙する形が取られます。
よく挙げられるものを並べます。
- 一定金額を超える支出・投資。設備の購入、不動産の取得。
- 借入、保証、担保の提供
- 資産の売却・処分
- 重要な契約の締結・変更・解約
- 役員の変更、役員報酬の変更
- 従業員の採用・解雇、給与の変更、賞与の支給
- 配当、自己株式の取得、増資、株式の発行
- 定款の変更
- 訴訟の提起、和解
- 会計方針の変更
これらは「禁止」ではなく「買い手の事前の承諾が必要」という形にするのが通常です。全面禁止にすると、必要な経営判断ができなくなります。
金額の線を決める
実務でいちばん揉めるのは、金額の線です。「一定金額を超える支出」の一定金額をいくらにするか。
低く設定すると、日常の仕入や修繕まで承諾が必要になり、会社が動かなくなります。高く設定すると、意味のある制約になりません。
決め方としては、その会社の月々の支出の規模から逆算するのが実務的です。普段の判断で出る金額は含めず、経営者が決める金額から上を対象にします。
加えて、除外を書きます。すでに決まっていた投資(契約済み・予算化済み)、法令で必要な支出、緊急の修繕、通常の仕入と給与の支払い。これらを除外しないと、経営が止まります。
承諾の手続きも決めます。誰に、どの方法で求め、何日以内に返答がなければどうなるのか。返答の期限を書かないと、承諾を待つ間に機会を失います。
売り手の側で現実的に困ること
この条項が重くなると、売り手の経営が実際に止まります。起きやすいことを挙げます。
人の採用が止まる。欠員が出ても採れない。現場が回らなくなります。繁忙期をまたぐ取引では深刻です。
賞与が出せない。支給の時期がクロージングの前に来ると、承諾が必要になります。従業員にはまだ譲渡を伝えていない段階なので、理由を説明できません。
設備の故障に対応できない。緊急の修繕を除外していないと、止まった機械を直せません。
取引先との契約更新ができない。年度の更新時期が重なると、重要な契約の更新が「変更」に当たるのかで迷います。
したがって、除外する項目は売り手から具体的に出すほうが確実です。買い手が作った雛形をそのまま受けると、自社の事情が入りません。
買い手の側で見るところ
買い手の立場では、価値が抜ける経路を塞ぎます。
よく見られるのは次の形です。クロージング前に配当や役員報酬で現金を抜く。会社の車や不動産を経営者個人に移す。保険を解約して返戻金を受け取る。退職金を支給する。親族の役員を増やす。
これらは違法ではなく、売り手にとっては自然な整理でもあります。だから「やってはいけない」ではなく「決めておく」話になります。
実務では、クロージングまでに売り手が行う整理を一覧にして契約に添える形が使われます。この資産は個人に移す、この保険は解約する、この役員は退任する。先に書いておけば、後から問題になりません。
加えて、情報を受け取る権利を定めます。月次の試算表を出す、重要なことが起きたら知らせる。これがないと、引き渡しの日まで中が見えません。
違反したときにどうなるか
この義務に違反した場合の扱いも決めます。
クロージングの前提条件にする。違反があればクロージングしなくてよい、という形。買い手にとっては強い手当てですが、売り手にとっては小さな違反で取引が壊れる危険があります。重大な違反に限ると書く形が使われます。
補償の対象にする。違反によって生じた損害を売り手が負担する形。金額で処理できます。
価格の調整に反映する。現金が減った分を価格から引く形。
実務では、重大な違反はクロージングの条件に、それ以外は補償や価格調整で処理する形が多く取られます。
期間が長い取引では、この条項が実際に使われる確率が上がります。許認可の承継に数か月かかる業種では特にそうです。
期間を短くするのが、いちばん効く
結局のところ、契約から引き渡しまでの期間が短ければ、この条項の負担も小さくなります。
期間が長くなる理由は決まっています。許認可の手続き、取引先の承諾、金融機関の融資、登記、株主の整理。これらを契約の前に進めておけば、期間が短くなります。
特に許認可は、申請から処理までの期間が制度で決まっているものがあります。先に確かめておくと、日程の見通しが立ちます。
整理すると、売り手がやることは次の順です。①引き渡しまでにかかる手続きを洗い出す ②その期間に自社で必要になる判断(採用・賞与・更新・修繕)を書き出す ③それを除外項目として契約に入れる ④金額の線と承諾の期限を決める。
④まで決めておけば、引き渡しまでの数か月を普通に経営できます。契約の条項は個別の事情で変わるため、締結前に弁護士に確認してください。