デューデリジェンスで簿外債務が出てくる領域として、労務は最も頻度が高いもののひとつです。しかも金額が読みにくく、「いくらと見ればいいのか」で交渉が止まりやすいのが特徴です。本稿では、買い手の立場で労務リスクをどう見積もり、価格や契約にどう反映させるかを整理します。調査の進め方は「労務デューデリジェンスとは」もあわせてご覧ください。

なぜ労務が簿外債務になりやすいのか

理由は単純で、払っていないものは帳簿に載らないからです。未払いの残業代は、請求されるまで負債として計上されません。社会保険の未加入も、加入していないのですから保険料の未払いは帳簿に出てきません。

加えて、中小企業では労務管理が長年の慣行で運用されていることがあります。「うちは昔からこうやってきた」という運用が、現在の法令に照らすと問題を含んでいる。悪意がなくても起きます。

買い手にとって厄介なのは、株式譲渡であればこの負債もそのまま引き継ぐことです。買収後に元従業員から請求が来れば、支払うのは買い手が経営する会社です。だからこそ、価格を決める前に見積もる必要があります。

未払い残業代の概算|まず粗く出す

精緻な計算は時間がかかります。まずは粗い概算で規模感をつかみます。

確認するのは、実際の労働時間と、支払われている残業代の差です。タイムカードや入退室記録があれば、そこから実労働時間を拾い、賃金台帳の残業手当と突き合わせます。記録がない場合は、業務の実態(繁忙期の稼働、休日出勤の有無)を聞き取って推計するしかありません。

時効の関係で、遡って請求され得る期間には上限があります。対象人数 × 月あたりの差額 × 対象月数で概算を置き、これに割増率や遅延損害金の余地を見て幅を持たせます。正確な数字より、幅の上限がいくらかを先に押さえるのが実務的です。

なお、この概算は売り手を疑うために作るのではありません。売り手自身が把握していないことがほとんどですから、数字を示して「こういう見方になります」と共有するところから交渉が始まります。根拠を示さずに減額だけを求めると、話は前に進みません。

固定残業代が有効に機能しているか

「営業手当に残業代を含んでいる」という説明は非常によく聞きます。しかし固定残業代として有効に扱われるには、いくつかの条件が要ります。

  • 通常の賃金と、割増賃金にあたる部分が明確に区分されていること
  • 何時間分の残業に相当するのかが示されていること
  • その時間を超えた場合に、差額が支払われていること
  • 就業規則・雇用契約書に、その旨が記載されていること

実務では、4つ目までは整っていても、3つ目が運用されていないことが多く見られます。「みなし残業40時間」としながら、50時間働いても差額を払っていない。この場合、超過分は未払いです。規程の存在ではなく、運用の実態を確認してください。

残業代以外の論点

労務リスクは残業代だけではありません。

論点確認するところ
社会保険の未加入加入要件を満たす人が全員加入しているか。パート・アルバイトの扱い
労働保険の申告漏れ年度更新の申告内容と、実際の賃金総額の一致
有給休暇付与日数と取得状況。年5日の取得義務が守られているか
管理監督者の範囲役職者を一律に管理監督者として扱っていないか
36協定締結・届出の有無。上限を超えた実績がないか
労災の未申告過去の事故を労災として処理せず、健康保険で処理していないか
係争中の案件労働審判・あっせん・監督署の是正勧告の履歴

社会保険の未加入は、遡及して加入を求められると会社負担分と本人負担分の双方が問題になり、金額が大きくなりやすい領域です。人数が多い業種では特に注意してください。

これらは互いに関連します。労働時間の記録がなければ残業代も有給の管理も検証できませんし、管理監督者の範囲を広く取っていれば残業代の未払いが積み上がります。ひとつ問題が見つかったら、周辺も同じ状態である可能性を疑ってください。

価格と契約に、どう反映させるか

見積もったリスクの扱い方は、大きく3つです。

ひとつめは、価格から差し引く。金額が概ね確定できる場合に採ります。売り手にとっては痛みが大きいですが、後腐れがありません。

ふたつめは、表明保証と補償で手当てする。発生の可能性はあるが金額が読めない場合に採ります。補償の上限・期間・免責額を具体的に定めます。ただし補償は、請求して回収できて初めて意味があります。売り手の資力が失われた後では機能しません。

みっつめは、クロージング条件として是正を求める。社会保険の加入手続きなど、成約前に直せるものはこの形が確実です。

金額の大きさと確実性で使い分けます。いずれの場合も、算定の根拠を売り手に示すことが交渉を前に進めます。「なんとなく不安だから引く」では合意できません。価格調整の考え方は「DDで問題が見つかったとき」をご覧ください。

まとめ|買収後に自分が払うものを見る

要点を整理します。

  • 払っていないものは帳簿に出ない。労務は簿外債務の常連
  • まず粗い概算で規模をつかむ。幅の上限を押さえる
  • 固定残業代は、規程ではなく運用を見る
  • 社会保険の未加入は、遡及すると金額が大きくなりやすい
  • 金額の確実性に応じて、価格調整・補償・是正条件を使い分ける

労務リスクは、売り手を責めるための材料ではありません。買収後にその会社を経営するのは買い手ですから、直すべきものを把握して、直す前提で価格を組む。それが買い手にとっての実利です。買収のご検討は「買収をお考えの方へ」をご覧ください。

よくあるご質問

A.従業員がいる会社であれば、規模を問わず何らかの確認は必要です。人数が多い、労働時間が長い業種、パート・アルバイトの比率が高いといった特徴があれば、社会保険労務士に依頼する価値が高くなります。小規模でも、賃金台帳と出退勤記録の突き合わせは行ってください。
A.記録がないこと自体がリスクです。請求されたときに、会社側が労働時間を反証できないためです。実態の聞き取りから推計し、幅の上限を保守的に置いたうえで、価格調整または補償で手当てするのが現実的です。
A.補償は回収できて初めて機能します。売り手が譲渡代金を使ってしまった後では実効性が下がるため、金額が大きい場合は一部を留保する、エスクローを使うといった手当てを併せて検討してください。金額が概ね確定しているものは、価格に反映するほうが確実です。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら