買収の交渉では、価格が動きます。調査で問題が出れば下がり、他の買い手が現れれば上がります。

このとき、いくらまでなら出すのかを先に決めているかどうかで、判断の質が変わります。この線を、ウォークアウェイ・プライス(降りる価格)と呼ぶことがあります。

決めていない場合に何が起きるか。調査の費用と時間をかけた後では、「ここまで来たのだから」という考えが入ります。結果として、当初の計算では成り立たない金額で買うことになります。

なぜ線が必要なのか

人は、かけた費用に引きずられます。調査に数百万円、交渉に数か月をかけた案件を、価格が上がったからといって降りるのは、感情として難しくなります。

しかし、すでにかけた費用は、買うかどうかの判断には関係ありません。買った後に成り立つかどうかだけが判断の材料です。

この切り替えは、意思の力ではできません。だから先に数字で決めておくという形を取ります。感情が入る前に、冷静な状態で線を引いておくわけです。

加えて、社内で共有しておく意味があります。担当者が1人で交渉していると、案件をまとめたい動機が働きます。線を社内の承認として持っていれば、「この金額を超えるなら持ち帰る」という形で止まれます。

売り手の側から見ると、相手が線を持っているかどうかは交渉の進み方に表れます。根拠を持って上限を示す相手は、その上限が本当である可能性が高くなります。

どう計算するか

上限の決め方は、買った後に成り立つかどうかから逆算します。

1. 悲観的な前提で収益を見積る。楽観的な前提で成り立つ金額は、上限ではありません。取引先が1社離れた場合、キーパーソンが辞めた場合、売上が1割落ちた場合の数字を作ります。

2. 必要な投資を引く。設備の更新、システムの統合、人の採用、未払いの精算。買った後に出ていくお金です。

3. 返済が成り立つかを見る。借入で買う場合、その返済が事業の収益で回るか。これがいちばん硬い制約です。回らなければ、いくら事業が魅力的でも買えません。

4. 自社の他の使い道と比べる。同じ金額を設備投資や採用に使った場合と比べて、買うほうが良いか。

この4つのうち3つめが上限を決めることが多くなります。金融機関の審査が、実質的に上限を示すことがあります。

線は1つではない

実務では、線を1つだけ持つのではなく段階で持ちます。

基準の金額。当初の計算で妥当と考える金額。ここから交渉を始めます。

条件付きで出せる金額。キーパーソンが残る、取引先の承諾が得られる、といった条件が満たされるなら出せる金額。

上限。これを超えたら降りる金額。

段階を持っておくと、価格以外の条件と交換できます。「この金額を出す代わりに、前の経営者が2年残ってほしい」「補償の期間を長くしてほしい」という形です。

価格だけの交渉になると、上げるか下げるかしかありません。条件を組み合わせられると、双方が納得できる点が見つかりやすくなります。

調査の結果で線を動かすとき

調査で問題が見つかった場合、上限を下げることになります。このとき、何をいくら引くのかを分けて考えます。

金額が確定しているもの。未払残業代、滞納している税、修繕が必要な設備。これは価格から引きます。

金額が確定していないもの。訴訟の可能性、許認可の不備。これは補償の対象にするか、支払いを分ける形で処理します。

前提が崩れたもの。主要な取引先が離れそう、キーパーソンが辞めると言っている。これは価格の調整では済みません。買う意味そのものが変わるので、降りる判断が入ります。

3つめを2つめと混ぜると、判断を誤ります。「価格を下げれば買える」と考えてしまうためです。買う理由が崩れたなら、安くても買う意味がありません。

逆に、上がる方向でも同じです。他の買い手が現れて価格が上がった場合、自社の計算で成り立つかどうかだけを見ます。競り合いで上限を超えるのは、最も避けたい形です。

降りるときの伝え方

降りると決めたときの伝え方も、実務の一部です。

理由を具体的に伝える。「社内の事情で」と曖昧にすると、売り手は何が悪かったのか分かりません。調査で見つかった事実、計算が成り立たない理由を伝えます。

資料を返す。秘密保持の取り決めに従って、受け取った資料を返還または消去します。

関係を切らない。条件が変われば再開することがあります。売り手が他の相手と話した結果、戻ってくることもあります。

仲介者にも伝える。経緯を共有しておくと、次の案件の紹介につながります。

そして、降りたことを失敗と扱わないことが大事です。調査で見つけて降りたのであれば、調査が機能したということです。その費用は、買わない判断を支えた費用になります。

売り手の側から見ると

売り手の立場でも、この考え方は使えます。

自分の下限を先に決める。いくら以下なら売らないのかを決めておきます。決めていないと、調査の後に下げられたときに判断の基準がありません。

下限の決め方は、廃業した場合に手元に残る金額が1つの目安になります。資産を処分して債務を払い、費用を引いた後の金額です。それを下回る条件なら、閉じるほうが残ります。

加えて、価格以外の条件も線を持ちます。雇用の扱い、引き継ぎの期間、屋号の扱い。これらに譲れない点があれば、先に決めておきます。

そして、相手が降りることを前提に進めます。1社と話して成立するとは限りません。候補が1社だけだと、その相手が降りた時点で振り出しに戻ります。

評価と資金計画の判断は個別の事情で変わるため、税理士・金融機関に確認してください。

よくあるご質問

A.決めておくほうが判断がぶれません。調査の費用と時間をかけた後では「ここまで来たのだから」という考えが入り、当初の計算では成り立たない金額で買うことになります。
A.悲観的な前提で収益を見積り、買った後に必要な投資を引き、借入の返済が事業の収益で回るかを見ます。借入で買う場合、返済が成り立つかがいちばん硬い制約になります。
A.金額が確定しているものは価格から引き、確定していないものは補償で処理します。ただし主要な取引先が離れる、キーパーソンが辞めるといった前提の崩れは、価格の調整では済みません。
A.理由を具体的に伝え、資料を返還または消去し、関係を切らないことです。調査で見つけて降りたのなら調査が機能したということで、その費用は買わない判断を支えた費用になります。

Free Consultation

買収をご検討の企業さまへ

検討の順序と費用の見通しから、ご一緒に整理します。

無料相談を申し込む

Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役副社長。中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら