財務の数字は整っているのに、労務の指摘で価格が下がる。実務でしばしば起こります。社会保険の加入漏れ、未払いの残業代。いずれも決算書には表れませんが、買い手にとっては引き継ぐ債務です。事前に把握して手を打てる論点でもあります。
なぜ労務が価格に響くのか
買い手が株式譲渡で会社を引き継ぐと、過去の未払い分も一緒に引き継ぎます。社会保険料の未納があれば、遡って請求される可能性があります。未払残業代があれば、従業員から請求される可能性があります。
これらは決算書に負債として計上されていません。しかし、買い手にとっては将来出ていくかもしれない現金です。だからデューデリジェンスで必ず調べ、見積もった金額を価格から差し引くか、表明保証と補償で手当てします。
裏を返せば、事前に整理しておけば、その分の減額は避けられます。
社会保険の加入漏れ
法人であれば、代表者一人の会社でも健康保険・厚生年金保険への加入が原則として必要です。パート・アルバイトについても、労働時間や勤務日数などの要件を満たせば加入対象になります。
実務でよく見るのは、加入要件を満たすパートを加入させていないという状態です。本人が「扶養から外れたくない」と希望した結果、そうなっているケースもあります。しかし、要件を満たす以上、加入は義務です。
遡って加入した場合、保険料は事業主負担と本人負担の両方が生じます。本人負担分を会社が肩代わりすることになれば、その全額が会社の負担です。人数が多ければ、金額は相応になります。
未払残業代
労務デューデリジェンスでもっとも金額が大きくなりやすいのが未払残業代です。指摘の典型は三つあります。
固定残業代の不備。時間数と金額が明示されていない、超過分を支払っていない場合、固定残業代としての効力が否定されることがあります。名ばかり管理職。役職があるだけで、労働時間の裁量も相応の待遇もなければ、管理監督者とは認められません。労働時間の記録がない。記録がないと、買い手は保守的に見積もります。
賃金請求権の消滅時効は、当分の間3年とされています。3年分を対象に試算されると、金額は小さくありません。
有給休暇と、その他の論点
年5日の年次有給休暇を取得させることは、使用者の義務です。取得させていない場合、是正の対象になるだけでなく、未消化分の買い取り負担を買い手が織り込むことがあります。年次有給休暇管理簿の作成・保存も求められます。
このほか、36協定の未締結や限度時間の超過、就業規則の未作成(常時10人以上の事業場では作成・届出が必要)、労働条件通知書の不備なども指摘の対象です。
いずれも「気づいていなかった」で済む話ではありません。だからこそ、案件が始まる前に棚卸ししておく価値があります。
どう指摘され、どう金額になるか
デューデリジェンスでは、まず賃金台帳、タイムカード、雇用契約書、就業規則、社会保険の資格取得届といった資料が求められます。そこから、未加入者の人数と期間、未払残業の推計額が算定されます。
算定された金額は、価格からの直接の減額になるか、表明保証違反があった場合の補償の対象として最終契約に書き込まれます。後者の場合、譲渡代金の一部が一定期間留保されることもあります。
売り手として避けたいのは、自分が把握していない金額を、買い手が保守的に見積もるという展開です。実額を把握していれば、交渉の余地が生まれます。
事前にできること
第一に、現状を把握することです。社会保険労務士に依頼して、加入状況と労働時間管理の実態を点検してもらいます。数十万円の費用で、数百万円以上の減額を防げることがあります。
第二に、直せるものは直す。加入漏れの是正、労働時間の記録の整備、就業規則の見直し、固定残業代の明示。今日から改善できるものが多くあります。
第三に、直せないものは開示する。過去に遡って消せない事実は、買い手に先に伝えます。開示された事実は交渉の材料になりますが、隠していた事実は契約違反になります。
整えることは、いま働く人のためでもある
労務の整理は、譲渡のためだけの作業ではありません。加入すべき保険に加入し、働いた分の賃金を支払い、休暇を取れるようにする。いま働いている人に対する当然の責務です。
そして、整った会社は人が辞めにくくなります。人が定着している会社は、買い手からも高く評価されます。労務の整備は、遠回りに見えて企業価値そのものを上げる作業です。
着手の順番に迷われる場合は、ご相談いただければ整理の仕方からご一緒します。月次決算の整備と併せて進めると効率的です。