M&Aの手続を進めると、驚くほど多くの書類に押印することになります。秘密保持契約、仲介契約、基本合意書、最終契約書、株式譲渡承認の議事録、株主名簿、辞任届、各種の通知書。しかも、押すべき印鑑が書類ごとに違い、印鑑証明書の添付を求められるものもあります。
この作業自体は事務的なものですが、どこに何を押すかを間違えると、手続がやり直しになったり、決済日が動いたりします。また、締結した契約書は成約後も長く保管する必要があります。本稿では、押印と電子契約、そして原本の保管について、譲渡を検討される経営者様が知っておきたい実務を整理します。
会社実印と個人実印|使い分けを間違えない
M&Aの書類で使う印鑑は、大きく二種類あります。
会社の実印(代表者印)は、法務局に印鑑届を出している会社の印鑑です。会社が当事者になる契約——秘密保持契約、仲介契約、会社が締結する各種の書類——に押します。会社の印鑑証明書は法務局で取得します。
個人の実印は、住所地の市区町村に登録している個人の印鑑です。株式譲渡契約の当事者は「株主個人」ですから、最終契約書に押すのは個人の実印です。ここは間違えやすい点で、会社の代表印を押してしまうケースがあります。個人の印鑑証明書は市区町村役場で取得します。
この区別を理解しておくことが重要なのは、株式を譲渡するのは会社ではなく株主だからです。会社は取引の対象であって、当事者ではありません。株主が複数いる場合は、それぞれの株主が個人実印を押し、個人の印鑑証明書を提出することになります。
そのほか、銀行印(金融機関に届け出ている印鑑)や、日常の書類に使う角印もありますが、M&Aの主要な書類では実印が求められるのが通常です。どの書類にどの印鑑を押すかは、必ず事前にアドバイザーや司法書士に確認してください。
印鑑証明書|有効期間と取得のタイミング
実印を押した書類には、印鑑証明書の添付を求められることがあります。ここで注意したいのが有効期間です。
印鑑証明書そのものに法律上の有効期限があるわけではありませんが、提出先が「発行から3か月以内のもの」といった条件を付けるのが一般的です。登記申請では法令上の期間の定めがある場合もあります。早く取りすぎると使えなくなるため、取得のタイミングには注意が必要です。
実務では、クロージング日が確定してから逆算して取得します。必要な通数も確認しておいてください。株式譲渡契約用、登記用、金融機関の手続用と、複数枚必要になることがあります。
また、次の点も事前に確認しておくと安心です。
印鑑登録をしているか。意外にも、個人の印鑑登録をしていない方がいらっしゃいます。登録には本人確認が必要で、即日で完了することが多いものの、市区町村によって取扱いが異なります。
登録した印鑑が手元にあるか。何年も使っていない実印が見当たらない、というケースもあります。紛失していれば、改印の手続が必要です。
住所・氏名が最新か。引っ越しや婚姻等で住所・氏名が変わっているのに手続をしていないと、証明書の記載と他の書類が一致しません。
ご高齢の株主や、遠方にお住まいの株主がいる場合。役場へ出向く必要があるため、時間に余裕を持って段取りしてください。複数の株主から書類を集める必要がある案件では、ここが日程上のボトルネックになることがあります。
電子契約を使う場合の留意点
近年、M&Aの書類でも電子契約サービスが使われる場面が増えています。遠隔地の当事者と締結できる、印紙税の負担が生じない、保管が容易といった利点があるためです。
ただし、M&Aの実務で電子契約を使う場合には、いくつか確認すべき点があります。
相手方が対応しているか。買い手が電子契約を使える体制にあるか、どのサービスを使うかを事前に確認します。当事者によっては紙での締結を希望することもあります。
登記に使えるか。登記申請の添付書類として使う場合、要件を満たす必要があります。クロージングで行う登記に関わる書類については、司法書士に事前確認が不可欠です。
本人性の確保。誰が署名したかをどう証明するか。特に株主が複数いる案件では、各株主の意思確認をどう記録するかが実務上の論点になります。
印紙税の取扱い。電磁的記録として作成し、紙の文書を作成しない場合の印紙税の取扱いについては、国税庁の見解が示されています。取扱いは文書の種類や作成方法によって異なりますので、詳細は「M&A契約書と印紙税|課税文書になる契約・ならない契約の基本」をご覧いただくとともに、必ず税理士等の専門家にご確認ください。
長期の保存。電子契約は、後から内容を確認できる状態で保存する必要があります。サービスの契約が終了した後もデータにアクセスできるか、PDFとして手元に保存しておくかを検討してください。補償請求期間は数年に及ぶことがあり、その間、契約内容を確認できる状態を維持する必要があります。
押印の実務|当日に慌てないために
クロージング当日は、多くの書類を短時間で処理します。慌てないために、事前に次の点を整理しておいてください。
押印する書類の一覧を受け取る。どの書類に、誰が、どの印鑑を押すのか。一覧があれば、当日の流れが見通せます。アドバイザーや司法書士に依頼すれば作成してもらえます。
事前に押せるものは済ませておく。すべてを当日に押す必要はありません。議事録や辞任届など、事前に準備できるものは先に整えます。
契印・割印の要否を確認する。複数枚にわたる契約書には契印を、原本を複数作成する場合は割印を求められることがあります。押す位置も含めて、事前に確認しておくと当日スムーズです。
訂正が必要になった場合の備え。記載に誤りが見つかったときの訂正方法(訂正印か、差し替えか)を、事前に取り決めておきます。
株主が複数いる場合の段取り。全員が当日集まれるのか、事前に押印を済ませるのか。ご高齢の方や遠方の方がいる場合は、特に早めの段取りが必要です。
クロージング当日の全体的な流れは「決済の流れ|入金・書類の受け渡し」で詳しく整理しています。あわせてご覧ください。
原本の保管|どこに、いつまで
締結した書類は、成約後も保管する必要があります。会社を手放したからといって、書類も手放してよいわけではありません。
売り手の手元に残すべきものを整理します。
- 最終契約書の原本(別紙・開示スケジュールを含む)
- 基本合意書、秘密保持契約書、仲介契約書
- 株式譲渡承認の議事録の写し
- クロージングで授受した書類の一覧と写し
- デューデリジェンスで提出した資料の一覧、質問と回答の記録
- 決済の入金記録、譲渡対価に関する資料
- 株式の取得費を証明する資料(出資の記録、相続時の資料、過去の譲渡の記録など)
最後の取得費を証明する資料は、見落とされがちですが極めて重要です。株式譲渡益の課税では、譲渡対価から取得費を差し引いて課税所得を計算します。取得費が証明できなければ、税務上不利な扱いになる可能性があります。設立時の出資の記録、相続や贈与で取得した場合の資料は、成約時に必ず整理しておいてください。取扱いの詳細は税理士にご確認ください。
保管期間は、補償請求期間と税務上の資料保存期間の、長いほうに合わせるのが安全です。補償請求期間は契約で定められており、事項によって数年に及びます。
保管方法としては、紙の原本を施錠できる場所に保管し、あわせてスキャンしたデータも別に保存しておくことをおすすめします。自宅の火災や水害で失うリスクを考えれば、二重に持っておく意味があります。
そして、所在をご自身以外の方にも伝えておくこと。ご家族や、相談している税理士・弁護士に、どこに何があるかを共有しておけば、万一の際にも対応できます。
まとめ|事務が、取引の質を支える
押印と保管は、M&Aのなかで最も事務的な部分です。しかし、押す印鑑を間違えれば手続はやり直しになり、印鑑証明書の取得が遅れれば決済日が動きます。そして、契約書を失えば、数年後に自分の身を守る手段を失います。
準備することは多くありません。押印する書類の一覧を事前に受け取る。個人の印鑑登録と実印の所在を確認する。証明書の取得タイミングを逆算する。締結後は原本とデータを二重に保管し、所在を家族にも伝える。これだけです。
特に、株主が複数いらっしゃる案件では、書類の収集が日程上の最大のボトルネックになります。ご高齢の方、遠方の方、ご多忙な方がいる場合は、早い段階で段取りを始めてください。
当社プラチナパートナーズでは、締結する書類の一覧づくり、押印と証明書の段取り、提携する司法書士との調整まで、譲渡企業様と並走してお手伝いしています。相談料・着手金・月額報酬は0円です。事務的なことほど、一人で抱え込まずにお任せください。