顧客名簿は、多くの会社にとって最も価値のある資産のひとつです。同時に、扱いを誤れば信用を一度に失う性質のものでもあります。譲渡の場面では、この名簿がどこに、どんな形で存在し、誰が触れるのかが必ず確認されます。本稿では、譲渡に向けた個人情報の棚卸しと、譲渡後に整える体制を、譲渡する側の視点で整理します。法令の適用や個別の判断については、弁護士にご確認ください。

名簿は資産であり、同時に責任でもある

譲渡の交渉で「顧客リストは何件ありますか」と聞かれることがあります。件数は確かに価値を示す数字ですが、引き継ぐ側が本当に見ているのはそこではありません。関心は次の三点にあります。

  • そのデータを、会社として使ってよい状態にあるか——取得したときの目的の範囲で使えるか
  • データがどこにあり、誰が触れるかを把握しているか
  • 過去に漏えいや不適切な取り扱いがなかったか

件数が多くても、管理の実態が分からなければ、それは資産ではなく不確実性として扱われます。逆に、件数が少なくても管理が行き届いていれば、安心して引き継げる資産になります。

そして、この領域の準備は譲渡の有無にかかわらず会社を守ります。名簿の持ち出しや漏えいは、規模の大小にかかわらず起こり得ます。譲渡を機に一度棚卸しをすることは、それ自体が経営の備えです。

株式譲渡と事業譲渡で、考え方が変わる

個人情報の引き継ぎは、譲渡の形によって前提が変わります。

譲渡の形データの扱い実務上の論点
株式譲渡法人格が同一のまま続くため、データを保有する主体は変わらない取得時の利用目的の範囲内での利用が続く。株主が替わったことによる利用目的の拡大には注意が必要
事業譲渡別の法人にデータが移る事業の承継に伴う提供として整理できるか、承継先での利用目的の範囲をどう考えるかを確認する必要がある

いずれの形であっても、注意が必要なのはデューデリジェンスの段階での開示です。交渉中の相手はまだ第三者ですので、氏名や連絡先をそのまま渡すのではなく、件数や属性の集計、一部を伏せた形で示すといった配慮が求められます。どこまで開示するか、どの段階で何を出すかは、アドバイザーと相談しながら進めてください。

また、譲渡後に利用目的を広げて使いたいという話が出ることがあります。新体制のグループ会社の商品を案内したい、といった場面です。ここは慎重な検討が必要な領域ですので、進める場合は弁護士にご確認ください。

どこに何があるかを洗い出す

棚卸しの第一歩は、データの所在の一覧化です。システムの中だけを見ても半分しか見つかりません。次の観点で探します。

所在具体例確認すること
基幹システム販売管理、顧客管理、予約システム誰がアクセスできるか、書き出しができる権限は誰にあるか
表計算ファイル部門ごとの名簿、DM送付先、見積の履歴共有フォルダのどこにあるか、個人のパソコン内に複製がないか
クラウドサービスメール配信、予約サービス、会計・請求、名刺管理契約の名義(会社か個人か)、退職者のアカウントが残っていないか
紙の記録申込書、カルテ、契約書の控え、来訪者名簿保管場所と施錠、保存期間、廃棄の方法
個人の端末営業担当のスマートフォンの連絡先、私物パソコン業務での利用を認めているか、ルールがあるか
その他防犯カメラの映像、入退室の記録、電話の録音保存期間と、閲覧できる人の範囲

あわせて、データごとに取得した時期と目的第三者に提供したことがあるか外部に委託して処理しているかを確認します。外部委託については、委託先との契約に安全管理に関する条項が入っているかを見ます。

よくある落とし穴

実務で繰り返し見つかるのは、次のような状態です。いずれも悪意によるものではなく、業務の必要から自然にそうなったものばかりです。

営業担当の私物スマートフォン

お客様の携帯番号が個人の端末に入っている。その方が退職すれば、データは会社の外に出たままになります。業務用の端末を配るか、少なくとも連絡先の管理方法をルール化する必要があります。

個人アカウントで契約しているクラウドサービス

担当者が自分のメールアドレスで登録し、支払いも個人のカードという例があります。その方が辞めるとサービスごと止まります。契約の名義を会社に移す作業は、譲渡の準備としても必須です。ITアカウントの引き継ぎは「ITアカウントと権限の引き継ぎ」で詳しく整理しています。

退職者のアカウントが生きている

メールも、システムも、共有フォルダも、退職時に止めていないことがあります。棚卸しの過程で、在籍者名簿とアカウント一覧を突き合わせてください。

古い名簿が残り続けている

10年前の顧客データ、使わなくなったイベントの申込者名簿。保存の必要がないものは、保存期間を決めて扱いを整理します。持っているだけで管理の責任が生じます。

紙の記録の所在が分からない

倉庫の段ボール、店舗のバックヤード、前の事務所。「どこにあるか分からない」は、最も説明しにくい状態です。

譲渡後の90日で整える最低限

引き継ぐ側の立場では、買収直後にすべてを整えることはできません。優先順位をつけるなら、次の順です。譲渡する側にとっても、先に手をつけておけばそのまま価値になる項目です。

  1. アクセス権限の見直し——誰が何を見られるかを、いまの職務に合わせて設定し直す。退職者と異動者のアカウントを止める
  2. データの一覧の作成——所在、内容、保存期間、責任者を一枚にまとめる
  3. 持ち出しのルール——外部記憶媒体、私物端末、印刷物の扱い。書面にして周知する
  4. 委託先との契約の確認——安全管理に関する条項の有無を確認し、必要に応じて覚書を交わす
  5. 問い合わせの窓口——本人からの開示や訂正の求めに、誰がどう対応するか
  6. 漏えいが起きたときの手順——誰に報告し、どこへ連絡するか。手順を紙にしておく

管理体制全般の考え方は「内部統制の最低限」もあわせてご覧ください。個人情報の取り扱いに関する法令上の判断や、報告の要否については、弁護士にご確認ください。

譲渡する側が、いまできる準備

最後に、着手しやすい順に整理します。いずれも数日から数週間で形になります。

  • 所在の一覧を作る——完璧でなくてよいので、まず書き出す。書き出した時点で、把握している会社になります
  • 在籍者とアカウントを突き合わせる——退職者のアカウントを止める。半日で終わります
  • クラウドサービスの契約名義を確認する——個人名義のものを会社名義に移す
  • 紙の記録の保管場所を決める——施錠できる場所に集約し、場所を台帳に書く
  • 持ち出しのルールを一枚にする——長文は不要です。守れる内容にすることが大切です

これらは、引き継ぐ側にとっては「この会社は管理ができている」という最も分かりやすい証拠になります。決算書には表れませんが、交渉の場での信頼に確実に効いてきます。

当社は、譲渡の準備段階での足元の整理から、譲渡後の体制づくりまで、順を追ってご支援しています。ご相談は無料、お問い合わせには2営業日以内にご返信します。

よくあるご質問

A.交渉中の相手はまだ第三者ですので、氏名や連絡先をそのまま開示することは慎重に考えるべきです。実務では、件数や属性の集計、取引金額の分布、一部を伏せた形での提示から始め、段階に応じて範囲を広げていきます。何を、いつ、どの形で出すかはアドバイザーと相談し、必要に応じて弁護士にご確認ください。
A.会社そのものが続くため、データを保有する主体は変わりません。取得したときの利用目的の範囲で使い続けることになります。ただし、譲渡後に新体制のグループ会社の案内に使いたいといった形で利用目的を広げる場合は、慎重な検討が必要です。進める場合は弁護士にご確認ください。
A.業務上の必要から自然にそうなっている会社は多く、それ自体が直ちに問題というわけではありません。ただし、その方が退職したときにデータが会社の外に残ることになります。業務用の端末を用意するか、連絡先の管理方法を決めておくことをおすすめします。譲渡の場面でも必ず確認される項目です。
A.保存する目的があるかどうかで判断します。法令や契約で保存期間が定められているもの以外は、必要がなくなった時点で扱いを決めておくのが基本です。保有し続ける限り管理の責任が伴いますので、データの一覧を作るときに保存期間の欄を設け、期限が来たものの扱いを決める運用にしておくと管理が続きます。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら