本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。「うちは番頭に継がせるつもりなんです」。相談の入口でこう言われたとき、その場で第三者への譲渡に話を振り替えないでください。社内承継は、経営者にとって最も自然な希望であり、実際に成立する条件が揃っていることも珍しくありません。仲介者の仕事は、第三者譲渡へ誘導することではなく、社内承継が成り立つかどうかを一緒に確かめることです。その過程で難しいと分かったときに、はじめて他の選択肢が意味を持ちます。本稿では、社内承継の成立条件、資金と保証の壁、そして次の選択肢の並べ方を型にします。
その言葉を、第三者譲渡に振り替えない
「従業員に継がせたい」と言われたときに、「ただ、社内承継は資金の問題で難しいことが多いんです」と即座に返すのは、最もよくない返し方です。事実としては間違っていなくても、相手には自分の希望を検討もせずに否定されたと受け取られます。
そもそも、この言葉には三つの段階があります。どの段階なのかで、その日にできることが変わります。
- 願望の段階:特定の候補者がいるわけではなく、「社内から出てほしい」という希望。まず候補の有無を一緒に整理します
- 候補がいる段階:名前は挙がっているが、本人には伝えていない。ここが最も多い
- 本人と話している段階:意思の確認まで済んでいる。資金と保証の具体的な検討に入れます
二番目の段階で「本人に聞いてみましょう」と急がせないでください。打診した時点で後戻りはできません。断られた場合、その従業員との関係も、社内の空気も変わります。打診の前に、成立条件を先に確かめる。これが順番です。
社内承継が成立する条件を、一緒に確かめる
次の五つが揃っているかを、初期の面談で一つずつ確かめます。揃っていない項目があれば、それが論点になるだけで、その場で結論を出す必要はありません。
| 条件 | 確かめること | 揃わないときの論点 |
|---|---|---|
| 本人の意思 | 経営者になる覚悟があるか | 打診の時期と伝え方を先に設計する |
| 株式取得の資金 | 自己資金・借入でいくら用意できるか | 取得の方法を組み替えられるか |
| 経営者保証 | 保証を引き継げるか、外せるか | 金融機関との事前の相談が要る |
| 取引先・金融機関の理解 | 代表者が変わることへの反応 | 主要先への説明の順番を決める |
| 親族株主の同意 | 分散株の集約に協力を得られるか | 集約の段取りを先に組む |
五つのうち、経営者が最も見落としているのは三番目と五番目です。株式を買い取る資金の話は誰でも思いつきますが、個人保証を引き継げるかどうかは、候補者のご家族の生活に直結します。また、株式が親族に分散している会社では、社内承継であっても集約の段取りが必要です。社内承継そのものの全体像は「従業員承継(MBO・EBO)とは」にまとめてあります。
資金の壁をどう見るか
株式の取得資金は、社内承継で最も多く挙がる論点です。ただし「資金がないから無理」と切るのは早すぎます。実務では、次のような組み方が検討されます。いずれも税務・法務の具体的な適用は、税理士・弁護士にご確認いただく領域です。仲介者がすべきなのは、選択肢があることを示し、専門家に確認すべき論点を整理することです。
- 金融機関からの借入:事業承継に関する融資制度の活用を含め、早い段階で相談の場を持つ
- 持株会社を用いる方法:取得のための会社を設けて株式を取得する形。設計次第で税務上の扱いが変わるため、必ず専門家の確認を挟みます
- 段階的な取得:一度に全株ではなく、時間をかけて持分を移していく
- 役員退職金との組み合わせ:退職金の支給によって株価の水準が変わる場合があり、水準の妥当性は税理士にご確認いただきます
- 公的な支援制度:事業承継・M&A補助金など、公表されている制度の要件を一次資料で確認する
ここで大切なのは、仲介者が資金調達の設計を代行しないことです。できるのは、論点を並べ、誰に確認すべきかを示し、検討の場を組むところまでです。この線を越えると、責任の所在が曖昧になり、結局は経営者が困ります。
経営者保証をどう扱うか
資金以上に現実的な壁になるのが、個人保証です。現経営者の保証を外し、後継者が新たに保証を負うのか、あるいは保証に依存しない形にできるのか。ここは金融機関との協議事項であり、会社の財務内容と、これまでの取引の経緯によって答えが変わります。
公表されている事実として、経営者保証に依存しない融資の割合は2024年度上期で52%(金融庁)とされています。以前に比べれば選択肢は広がっていますが、個別の会社に当てはまるかどうかは別の話です。一般的な傾向を、その会社で通る前提として語らないでください。
初期対応でできるのは次の三つです。
- 現在の保証の状況(誰が、どの借入に、どこまで)を書き出す
- 後継者候補とご家族が、保証をどう受け止めるかを確認する時間を設けていただく
- 経営者から金融機関に相談する場を、早い段階で持っていただく
保証の解除については「経営者保証は外せるか」、金融機関への説明は「金融機関への説明」に整理しています。
難しいと分かったとき、次の選択肢をどう並べるか
条件を確かめた結果、社内承継が難しいと分かることはあります。そのときの伝え方で、その後のすべてが決まります。
- 「無理です」と言わない:何がどう足りないのかを、条件ごとに分けて示します。時間をかければ解ける項目と、構造的に解けない項目は別物です
- 候補者本人への配慮を先に決める:打診していた場合、その方に何をいつ伝えるのか。宙に浮かせたままにすると、社内に不安が残ります
- 選択肢は並べるだけにする:親族内承継、第三者への譲渡、当面の継続、時間をかけた社内承継の再設計。どれかを勧める場ではありません
- その場で決めていただかない:希望が一つ閉じた直後は、判断に向かない状態です。日を改めて、材料を揃えてから話します
第三者への譲渡になった場合でも、候補者だった従業員は承継後の中核になります。社内承継の検討を丁寧に扱ったかどうかは、承継後の組織にそのまま残ります。急がせない伴走については「オーナーの心理に寄り添う」も併せてお読みください。