M&Aのデューデリジェンス(DD)というと、財務・税務・法務・労務が主役として語られます。しかし近年、中小企業の取引でも独立した論点として扱われることが増えているのが知的財産のデューデリジェンス(知財DD)です。会社の名前、ロゴ、長年使ってきた商品名、自社で開発した装置や製法、業務システムやWebサイト——これらは決算書にほとんど計上されていないにもかかわらず、事業の継続にとって不可欠な資産であることが少なくありません。
本稿では、知財DDで一般に確認される論点を、商標・特許等・ソフトウェア著作権の三つに分けて整理し、売り手として売却前に何を整えておくとよいかをご説明します。なお、知的財産法の解釈は事案ごとの事情に大きく左右されます。本稿はあくまで一般論であり、断定的な結論を述べるものではありません。
知的財産DDとは|「目に見えない資産」を確かめる調査
知財DDは、対象会社が事業に使っている無形の資産について、権利関係を確認する調査です。買い手の関心は、突き詰めると次の三点に集約されます。
- 帰属——その権利は、本当に「会社」に帰属しているか。社長個人や別会社、外注先の手元に残っていないか
- 登録・保全——登録によって保護される種類のものについて、登録がなされ、更新も維持されているか
- 第三者との衝突——他社の権利を侵害していないか、逆に他社から模倣されていないか。係争や警告書のやり取りはないか
買い手が知財DDを重視するのは、この三点のどこかが崩れると、買収後に事業をそのまま続けられなくなるおそれがあるからです。たとえば長年使ってきた商品名が他社の権利とぶつかっていれば、名称の変更を余儀なくされるかもしれません。中核技術の権利が会社に帰属していなければ、買収した意味そのものが揺らぎます。DD全体の流れや他の分野との関係については「デューデリジェンスとは|M&Aの買収監査で見られること」もあわせてご覧ください。
商標|会社の名前とブランドは誰のものか
中小企業の知財DDで最も高い頻度で論点になるのが商標です。会社名、店舗名、サービス名、商品名、ロゴマーク——長年使ってきたこれらの表示について、次のような点が確認されます。
登録の有無と名義
まず、そもそも商標登録がなされているかどうか。次に、登録されている場合、その名義が誰になっているかです。中小企業では、創業時に社長が個人で出願し、そのまま個人名義で維持しているケースがしばしば見られます。株式譲渡によって会社は買い手のものになりますが、社長個人名義の商標は会社の資産ではないため、放っておくと譲渡後も個人の手元に残ります。この場合、名義を会社へ移す手続きを行うか、譲渡契約のなかで取扱いを明確にすることが求められるのが一般的です。
指定商品・指定役務の範囲
商標は、どの分野で使うかという区分を指定して登録されます。登録はあるものの、実際に展開している事業の分野が指定の範囲から外れている、というずれが見つかることもあります。事業拡大に登録が追いついていないケースです。
更新の管理
商標権には存続期間があり、更新の手続きを取らなければ権利は消滅します。担当者の退職や代理人との関係が途切れたことで、更新期限の管理が誰の手にも残っていない、という状態は決して珍しくありません。
未登録のまま使ってきた表示
登録をしないまま長年使ってきた屋号や商品名も、事業上は重要なブランドです。この場合、他社の登録商標と衝突していないかという確認が中心になります。逆に、他社に先に登録されてしまうリスクをどう見るかも、買い手の関心事になります。
特許・実用新案・意匠|職務発明の取扱いという論点
製造業や技術系の会社では、特許・実用新案・意匠が確認対象になります。ここでの論点も、やはり「帰属」と「維持」です。
| 確認される事項 | 典型的に問われる内容 |
|---|---|
| 出願・登録の一覧 | 権利の名称、出願日・登録日、権利者の名義、現在の状態(存続・消滅・審査中) |
| 年金(登録料)の納付 | 維持のための費用が納付され続けているか、失効しているものがないか |
| 職務発明の取扱い | 従業員が業務のなかで生んだ発明について、社内規程や取決めがあるか、その運用実態はどうか |
| 共同出願・持分 | 取引先や大学等との共同出願がある場合、持分や実施の条件がどう定められているか |
| ライセンス契約 | 他社から受けている実施許諾、他社へ与えている実施許諾の条件。支配権が変わったときの取扱い |
| 紛争・警告 | 侵害の警告書、訴訟、異議・無効審判の有無と経緯 |
このうち中小企業で整備が遅れやすいのが職務発明の取扱いです。従業員が職務のなかで行った発明について、権利の扱いや従業員への対価をどう定めるかは、社内規程の有無や内容によって整理の仕方が変わり得る領域です。規程が存在しない、あるいは作ったきり実際には運用されていない、という状態が知財DDで指摘されることがあります。制度の具体的な要件や、過去の運用が有効と評価されるかどうかは、事案ごとの検討を要するため、必ず弁護士・弁理士にご確認ください。
また、共同出願も見落とされやすい論点です。取引先と共同で開発した技術について、持分や第三者への実施許諾の条件がどう定められているかによって、買収後の事業展開の自由度が変わることがあります。契約書が見つからない、口頭の了解しかない、というケースでは、買い手から表明保証や補償の条件を厚くするよう求められることも考えられます。表明保証の考え方は「表明保証とは|M&A契約で売り手が負う責任」で解説しています。
ソフトウェア・著作権|社内開発と外注で論点が変わる
業務システム、生産管理ソフト、予約システム、Webサイト、マニュアルや設計図面、写真やカタログ——これらは著作権の対象になり得る資産です。ソフトウェアや制作物については、誰が作ったかによって確認の観点が変わります。
社内で開発した場合
従業員が業務のなかで作成した著作物の扱いは、就業規則や社内規程、作成の経緯によって整理されるのが一般的です。ここでも「規程がない」「規程はあるが実態と合っていない」という状態が論点になり得ます。
外注して作ってもらった場合
開発会社や制作会社に委託した場合は、委託契約の内容がすべての出発点になります。権利の帰属について契約でどう定めたか、納品後の改変や再利用が認められているか、ソースコードが引き渡されているか。中小企業では、そもそも契約書が残っていない、発注書とメールのやり取りしかない、というケースが少なくありません。この場合、買い手からは、事業継続に支障がないかを確認するための追加資料や、外注先からの確認書の取得を求められることがあります。
役員・親族が個人で作った場合
社長やその家族が個人的に作ったWebサイト、独自ツール、写真素材などが業務で使われていることもあります。この場合も、権利が会社に移っているのかどうかが確認されます。
外部のソフトウェアやライセンスの利用状況
自社開発だけでなく、購入・契約して使っているソフトウェアのライセンス数が実際の利用実態と合っているか、契約上、支配権が変わったときに継続利用できるかも確認対象になります。オープンソースを組み込んでいる場合には、そのライセンス条件との整合も論点になり得ます。
売り手が売却前に整えておきたい5つのこと
知財DDで指摘を受けても、多くは事前に整理しておけば大きな交渉材料にはなりません。売却を検討し始めた段階で、次の5つに着手しておくことをおすすめします。
- 1. 一覧をつくる——商標・特許等の登録番号と名義、使っているソフトウェアと契約先、制作物とその制作者を、A4一枚でよいので棚卸しします。この一覧があるだけでDDの初動が大きく変わります
- 2. 名義を確認する——登録名義が会社になっているか。社長個人や旧法人、廃業した関連会社の名義になっていないか。ずれがあれば早めに専門家へ相談します
- 3. 契約書を探す——開発委託契約、共同開発契約、ライセンス契約。紙のファイル、旧パソコン、担当者のメールまで含めて探し、見つからないものは「見つからない」と正直に整理しておきます
- 4. 更新期限を把握する——商標の更新、特許の年金納付。期限が近いものは、売却手続きの最中に失効させないよう管理表にまとめます
- 5. 紛争・警告の履歴を洗い出す——過去に警告書を受け取った、あるいは送ったことがあれば、経緯と結末を時系列で整理します。隠すことが最も大きなリスクになります
整理の過程で「これは会社の資産ではなかった」と分かることもあります。事業に使っていない資産や、逆に個人名義になっている資産の扱いについては「事業に使っていない資産の扱い|遊休資産・保険・車両を売却前にどう整理するか」も参考になります。
まとめ|知財の整理は「価値の裏づけ」になる
知財DDは、売り手にとって「粗探しをされる場」ではありません。むしろ、会社が長年積み上げてきたブランドや技術が、書類のうえでもきちんと会社のものになっていると示す機会です。買い手にとって、権利関係が整理されている会社は、買収後の事業計画を立てやすい会社です。整理されているという事実そのものが、評価の安定につながります。
逆に、権利の所在があいまいなまま交渉が進むと、買い手は不確実性を価格や契約条件に織り込もうとします。表明保証の範囲が広がる、補償の上限が高く設定される、一部の対価が留保される——いずれも、売り手にとって不利に働きます。企業価値を下げてしまう要因については「企業価値を下げてしまう要因|買い手が減額を求める場面」もご覧ください。
知財の整理は、専門家の助けを借りれば数か月で形になることが多い作業です。売却を考え始めた「まだ早いかもしれない」という段階こそ、着手に適したタイミングだと当社は考えています。何から手を付ければよいか分からないという段階でも、遠慮なくご相談ください。