「まだ引退するつもりはないが、もし自分の判断力が衰えたら会社はどうなるのか」——ご高齢の経営者様から、この不安を打ち明けられることがあります。事業承継の議論は「誰に継がせるか」に集まりがちですが、実務でより差し迫った危機は、承継が完了する前に現経営者が判断能力を失ってしまうことです。

この備えとして近年よく取り上げられるのが、家族信託(民事信託)です。財産の管理を家族に託すこの仕組みは、自社株に応用することで、経営者の判断能力が低下した後も会社の意思決定を止めないための手段になり得ます。

本稿では、家族信託の基本構造と、事業承継における位置づけを整理します。ただし先にお伝えしておくと、家族信託は自分たちだけで組めるものではありません。信託に精通した弁護士・司法書士・税理士の関与が事実上の前提となる仕組みです。本稿はあくまで、専門家に相談する前に全体像をつかんでいただくためのものとお考えください。

本記事は一般的な情報提供であり、個別の税務・法務は税理士・弁護士等の専門家にご確認ください。信託の設計・組成は高度に専門的な作業であり、必ず信託に精通した専門家の関与を得て行ってください。

家族信託(民事信託)の基本構造|委託者・受託者・受益者

信託とは、ひとことで言えば「財産の管理を、信頼できる人に託す」仕組みです。登場人物は三者います。

  • 委託者——財産を持っていて、その管理を託す人。事業承継の場面では、現在のオーナー経営者
  • 受託者——財産の名義を引き受け、契約の定めに従って管理・処分する人。多くは後継者や配偶者などの家族
  • 受益者——その財産から生じる利益を受け取る人。委託者自身が受益者になる設計が一般的です

この仕組みの核心は、「財産を管理する立場」と「財産から利益を受ける立場」を分けられるという点にあります。名義と管理権限は受託者に移りますが、経済的な利益は受益者のもとに残る。この分離こそが、他の制度にはない信託の特徴です。

なお「信託」というと信託銀行を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、信託銀行などが業として引き受けるものは商事信託と呼ばれます。これに対して、家族や親族が受託者となり、営利を目的とせずに行うものが家族信託(民事信託)です。本稿で扱うのは後者です。

信託は原則として、委託者と受託者の間で結ぶ信託契約によって設定されます。この契約書に、託す財産の範囲、受託者の権限、信託の期間、終了したときに財産が誰のものになるかといった事項を書き込みます。契約書の出来がそのまま将来の使い勝手を決めるため、ここが最も専門性を要する部分になります。

なぜ事業承継で注目されるのか|判断能力と議決権

家族信託が事業承継の文脈で語られる最大の理由は、経営者の判断能力が低下したときのリスクにあります。

判断能力を失うと、株主として動けなくなる

株式は財産であると同時に、会社の意思決定に参加する権利でもあります。株主総会での議決権行使は、株主本人の判断に基づいて行われるべきものです。ところが、オーナー経営者が認知症などによって判断能力を失うと、その方が保有する株式の議決権を適切に行使できなくなります。

中小企業では、オーナー一人が議決権の大半を持っていることが珍しくありません。その株式が動かせなくなると、次のような事態が起こり得ます。

  • 株主総会の定足数を満たせず、決議が成立しない
  • 役員の選任・解任ができず、経営体制を変えられない
  • 決算の承認や重要な議案の決議が滞る
  • 金融機関との交渉や重要な契約の締結に支障が出る
  • M&Aによる第三者への譲渡も、株主本人の意思確認ができず進められない

この最後の点は特に重要です。会社を売却するという選択肢も、株主本人の意思能力があってこそ成り立ちます。「いざとなったら会社を売ればよい」と考えていても、判断能力を失った後ではその選択肢自体が事実上閉ざされてしまうのです。

成年後見制度との違い

判断能力が低下した後の備えとしては成年後見制度がありますが、この制度は本人の財産を保護することを主眼としており、家庭裁判所の監督のもとで運用されます。事業上の機動的な判断——たとえば会社の成長のためのリスクを取る決断——になじみにくい面があるとされています。判断能力を失う「前」に、あらかじめ託しておくという点が、信託の持つ意味です。

自社株を信託するとどうなるか

では、自社株を信託財産として設定すると、具体的に何が変わるのでしょうか。

項目信託設定後の状態
株式の名義受託者へ移る(株主名簿の記載も変更する)
議決権の行使信託契約の定めに従い、受託者が行使する
配当などの経済的利益受益者が受け取る(委託者自身を受益者とする設計が一般的)
委託者の判断能力が低下したとき受託者が引き続き議決権を行使できるため、会社の意思決定は止まらない

ここが家族信託の妙味です。経営に必要な議決権は後継者(受託者)に託しつつ、経済的な利益は現経営者(受益者)の手元に残す——という設計ができます。生前贈与のように株式そのものを完全に渡してしまうのとは、この点が異なります。

さらに、信託契約には指図権を定めることもできます。受託者が議決権を行使するにあたって、委託者(あるいは委託者が指定した者)の指図に従うという設計です。これによって、「元気なうちは自分の判断で議決権を行使させ、判断能力が低下したら受託者の判断に委ねる」といった段階的な移行も設計上は可能になります。

また、信託契約では信託が終了したときに信託財産が誰のものになるか(帰属権利者)を定められます。これにより、遺言に近い機能を持たせることもできます。委託者の死亡を信託の終了事由とし、株式を後継者に帰属させる、といった設計です。

活用にあたっての注意点|万能ではない

ここまで読むと万能に見えるかもしれませんが、家族信託には慎重に考えるべき点が多くあります。実務で必ず論点になるものを挙げます。

1. 受託者を誰にするか、が最大の難所

受託者は、財産の名義を引き受け、契約に従って管理する重い責任を負います。信頼できる人がいなければ、そもそも家族信託は成り立ちません。また、受託者が委託者より先に亡くなる、あるいは受託者自身が判断能力を失う可能性もあります。後任の受託者をあらかじめ定めておくなど、備えを契約に織り込む必要があります。

2. いったん設定すると簡単には巻き戻せない

信託は長期にわたって効力を持つ仕組みです。設計が実態に合わなくなったときの変更手続きも契約に定めておかなければ、後から柔軟に動かすことが難しくなります。「とりあえず組んでみる」という性質のものではありません。

3. 税務の取扱いを必ず事前に確認する

信託の設定・運用・終了の各段階で、誰にどのような課税関係が生じるかは、受益者を誰にするかなどの設計によって変わります。とりわけ、委託者以外の人を受益者とする設計では、設定の時点で課税関係が生じることがあります。この点は必ず、設計の段階で税理士に確認してください。本稿では意図的に細部に立ち入りません。設計次第で結論が変わるため、一般論として書けることが限られるからです。

4. 会社法上の手当ても必要になる

自社株を信託する場合、株式に譲渡制限が付されていれば会社の承認手続きが必要ですし、株主名簿の書き換えも要します。定款の定めとの整合も確認しなければなりません。会社側の手続きを疎かにすると、信託の効力が会社に対抗できないおそれがあります。

5. 相続人間のバランスへの配慮は別途必要

信託を使えば相続に関する権利の問題がすべて消えるわけではありません。他の相続人の取り分をどう確保するかという課題は、信託とは別に設計しておく必要があります。信託は「争いを防ぐ道具」ではなく、「管理を託す道具」だとご理解ください。

遺言・生前贈与・信託の使い分け

自社株の承継手段としては、遺言・生前贈与・信託がそれぞれ異なる役割を持ちます。整理しておきましょう。

手段効力が生じるとき主に解決すること
遺言本人の死亡後誰に株式を渡すかを本人の意思で指定する
生前贈与贈与した時点生前に株式を確実に移し、以後の運営を後継者に委ねる
家族信託信託契約を結んだ時点議決権の行使を託しつつ、経済的利益は手元に残す。判断能力低下に備える

重要なのは、これらは排他的な選択肢ではないということです。実務では、信託で議決権の空白を防ぎつつ、遺言で他の財産の配分を定め、生前贈与を段階的に進める——といった組み合わせがよく用いられます。遺言については「遺言で自社株を後継者に」、生前贈与については「生前贈与で自社株を渡す」で詳しく解説しています。

そして忘れてはならないのが、これらすべてが「継ぐ人がいる」ことを前提にした手段だということです。帝国データバンクの2025年調査では後継者不在率は50.1%とされており、親族内に承継できる方がいないケースは決して例外ではありません。その場合には、判断能力があるうちに第三者への承継(M&A)を検討することが、会社と従業員を守る現実的な道になります。

まとめ|専門家との設計が前提になる仕組み

本稿の要点を整理します。

  • 家族信託(民事信託)は、委託者・受託者・受益者の三者からなり、財産を管理する立場と利益を受ける立場を分けられる仕組み
  • 事業承継では、経営者が判断能力を失うと議決権が行使できなくなるというリスクへの備えとして注目される
  • 自社株を信託すれば、議決権の行使を受託者に託しつつ、経済的利益は受益者(通常は委託者自身)に残せる
  • ただし、受託者の選定、後戻りのしにくさ、税務の取扱い、会社法上の手続き、相続人間のバランスなど、検討すべき論点は多い
  • 遺言・生前贈与とは役割が異なり、組み合わせて設計するのが実務

あらためて強調します。家族信託は、専門家の関与を前提とする仕組みです。インターネット上の雛形をもとに自作するようなものではありません。信託に精通した弁護士・司法書士に契約の設計を、税理士に課税関係の確認を依頼したうえで組成してください。

そして、もし「そもそも継ぐ人がいない」「後継者候補はいるが本人の意思が固まっていない」という段階でお悩みでしたら、承継の手段を精緻に設計する前に、会社の将来の姿そのものを一度整理することをおすすめします。当社は、親族内承継と第三者承継の両方を並べたうえでご判断いただく方針です。相談料・着手金・月額報酬はいただいておりませんので、方向性が定まらない段階でもお気軽にお声がけください。

よくあるご質問

A.財産を持つ人(委託者)が、信頼できる人(受託者)に財産の名義と管理権限を移し、その財産から生じる利益は指定した人(受益者)が受け取るという三者の関係で成り立つ仕組みです。信託銀行などが業として引き受ける商事信託と区別して、家族や親族が受託者となるものを家族信託・民事信託と呼びます。管理する権限と利益を受ける立場を分けられる点が、この仕組みの最大の特徴です。
A.オーナー経営者が判断能力を失うと、その方が保有する株式の議決権を適切に行使できなくなり、株主総会の決議が成立しない、役員の選任ができないといった事態が起こり得ます。自社株を信託して受託者に議決権の行使を託しておけば、委託者である経営者の判断能力が低下した後も、受託者が信託契約の定めに従って議決権を行使できます。会社の意思決定を止めないための備えとして活用されます。
A.おすすめしません。信託契約は長期にわたって効力を持ち、いったん設定すると簡単には巻き戻せません。受託者の権限の範囲、信託の終了事由、その後の財産の帰属、受託者が先に亡くなった場合の備えなど、契約書に書き込むべき事項は多岐にわたります。また自社株の信託は会社法や税務との関係も生じます。信託に精通した弁護士・司法書士・税理士の関与を得て設計してください。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら