本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者に向けた実務教材です。中小企業のM&Aで、買い手が価格と同じくらい気にするのが人です。誰が何をしているのか、辞めそうな人はいるのか、賃金の水準は適正か。一方で、従業員の情報は個人情報であり、扱いを誤れば譲渡企業にも従業員にも損害が及びます。正確に示すことと、個人を守ることは両立します。そのための設計を、本稿で型にします。
買い手が知りたい四点|人数ではなく構造
従業員数だけを書いた資料は、実務では役に立ちません。買い手が確かめたいのは次の四点です。
- 事業を回す機能が、誰に担われているか:営業、製造、調達、経理、許認可に関する資格
- 承継後も残るのか:年齢構成、勤続、直近の入退社の状況
- 人件費の水準と変動:総額の推移、賞与の性質、定期昇給や手当の仕組み
- 労務上の論点がないか:労働時間の管理、社会保険の加入、退職金の制度
一つ目は、組織図と職務の記述で示します。ここで個人の評価を書かないことが原則です。「優秀」「頼りになる」といった主観は、資料に載せると、譲渡後にその評価が独り歩きします。書くのは、どの機能を誰が担っているかという事実です。
四つ目は、簿外債務の論点と直結します。人員データを整える作業は、労務の論点を洗い出す作業でもあります。「簿外債務と引当不足の洗い出し」とあわせて進めてください。
個人情報の扱い|匿名化と、開示の段を先に決める
作業に入る前に、どの段で、どの粒度まで出すかを決めます。決めずに作ると、氏名入りの名簿がそのまま資料に添付される、といった事故が起きます。
| 段階 | 出す粒度 | 形 |
|---|---|---|
| ノンネーム・初期打診 | おおよその規模のみ | 人数の幅で記載する |
| 企業概要書(NDA締結後) | 部門別人数、年齢構成、勤続の分布、人件費総額 | すべて集計値。個人は特定されない形 |
| デューデリジェンス | 職務・等級・賃金の分布、労務関係の記録 | 個人は記号で管理する。氏名は原則出さない |
| クロージング前後 | 雇用の承継に必要な範囲 | 手続に必要な範囲で、法令に従い取り扱う |
実務の原則は三つです。①氏名は記号に置き換える ②少人数の区分は括って個人が特定されないようにする ③開示の記録を残す。二つ目が抜けやすい点です。たとえば「経理部 2名」の年齢と賃金を並べれば、社内では誰のことか分かります。人数の少ない部門は、他部門と合算するか、分布の形でのみ示します。
また、従業員本人には譲渡の検討自体が伝わっていない段階であることを忘れないでください。資料の受け渡し、保管、印刷、持ち出しの管理は、ここが最も慎重を要する領域です。運用の考え方は「秘密保持の運用実務」を参照してください。
つくる表|四枚あれば足りる
企業概要書の段階で用意するのは、次の四枚です。これ以上は、DDの段で必要に応じて作ります。
- 1. 人員構成表:部門別・雇用形態別の人数。3期分を並べて増減を示す
- 2. 年齢・勤続の分布:年代別、勤続年数別の人数。定年の時期が近い層が見える形にする
- 3. 人件費の推移:役員報酬・給与・賞与・法定福利費を分けて3期分。総額と一人当たりの両方
- 4. 入退社の推移:3期分の入社・退社の人数と、主な理由の区分(定年、自己都合、契約満了など)
四枚目は省かれがちですが、買い手が最も重視する表の一つです。離職が多い場合も、隠さずに載せてください。業種特性で入替わりが多い事業もあり、事情を添えれば正しく読まれます。数字を伏せると、DDで判明したときに「他にも伏せているのではないか」という疑いにつながります。
賃金の分布を示す場合は、個人が特定されない幅の階級に丸めます。等級制度がある会社なら等級別に、ない会社なら職種別・年代別の範囲で示します。役員報酬は別扱いで、実態の損益を見る際の調整項目としても整理します。
キーマンと属人性|人を評価せずに構造を書く
中小企業では、特定の人に機能が集中していることがよくあります。これを書かずに進めると、DDや取引先挨拶の段で必ず表に出ます。書き方の原則は、人を評価するのではなく、機能の所在と代替の状況を書くことです。
| 書かない | 書く |
|---|---|
| 「工場長が非常に優秀で、彼がいないと回らない」 | 「製造の工程管理と外注先の手配を工場長が担当。同等の経験者は社内に1名(勤続◯年)」 |
| 「営業は社長の人脈で成り立っている」 | 「上位取引先◯社のうち◯社は代表が窓口。担当者との接点は営業部長が保持」 |
| 「経理は長年の担当者に任せきり」 | 「経理は1名体制。月次の作成・支払管理を担当。顧問税理士が決算を担当」 |
| 「後継者候補がいない」 | 「代表の担う機能は◯◯と◯◯。引継ぎに要する期間は◯か月を想定」 |
右の書き方であれば、買い手は引継ぎの設計として読むことができます。左の書き方だと、判断材料にならないうえ、譲渡後にその表現を見た本人が不快に思う可能性があります。資料は社内で回覧されることがある、という前提で言葉を選んでください。
また、退任予定や引継ぎ期間の希望は、早い段階で事実として記載します。オーナーの引継ぎ期間の想定は、価格の前提にも関わる情報です。
労務の論点との接続|データを整えると、必ず何か出る
人員データを整える過程で、労務上の論点が見えることがあります。これは、作業の副産物ではなく主要な目的の一つだと考えてください。
- 勤怠記録と賃金台帳の整合:所定時間を超える労働に対する支払が、規程どおりか
- 社会保険の加入状況:加入対象者と実際の加入者に差がないか
- 退職金制度:規程の有無、引当や外部積立の状況
- 雇用契約の書面:全員分あるか、更新の管理がされているか
- 就業規則:直近の改定時期、届出の状況
これらは、アドバイザーが適否を判定する領域ではありません。事実を整理し、論点として資料に書き、社会保険労務士や弁護士の確認につなぎます。判定を避ける一方で、論点を書かないのは別の誤りです。書いたうえで、専門家の確認中である旨を添えてください。
オーナーへの伝え方は、他の論点と同じです。「同じ規模の会社では一般的に確認される項目です」という事実を先に置き、買い手が必ず見る項目として、段取りの話にします。是正に着手している事実は、買い手にとって安心材料になります。労務関係の具体的な適用は、社会保険労務士・弁護士にご確認ください。
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