本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。買い手から意向表明書(LOI)が届いた日は、案件が動き出す日です。ところが新人のうちは、書面の一番上に書かれた金額だけを見て「良い条件が来ました」と売り手に伝えてしまいがちです。意向表明書は金額の紙ではなく、買い手がこの案件をどう理解し、どこまで本気で、何を条件にしているかが凝縮された設計図です。ここでは、書面のどこを、どの順番で読み、何を売り手に説明するのかを、先輩が後輩に教えるつもりで整理します。書面そのものの基礎的な位置づけは「基本合意書と最終契約書の違い」も併せて確認してください。
意向表明書とは何か|法的拘束力と「熱量」を読み分ける
意向表明書は、買い手が売り手に対して「この条件で検討を進めたい」と表明する書面です。一般に法的拘束力を持たせないのが通例で、書面の末尾に「本書は法的拘束力を有しない。ただし秘密保持および費用負担の条項を除く」といった趣旨の条項が置かれます。つまり、意向表明書の価格は約束ではなく、現時点の想定です。ここを誤解したまま売り手に伝えると、後のデューデリジェンス(DD)後に条件が動いたとき、売り手は「話が違う」と感じます。最初の説明でこの性質を伝えておくことが、後の交渉を守ります。
一方で、拘束力がないからといって中身が軽いわけではありません。意向表明書には買い手社内の検討の深さが表れます。私は次の三点を「熱量の指標」として見ています。
- 社内手続の記載:取締役会決議の要否、決議の予定時期まで書いてあるか。書いてあるほど社内で議論が進んでいる
- 前提条件の具体性:「DDの結果に重大な問題がないこと」だけの一般論か、事業上の懸念点が名指しで書かれているか。後者のほうが読み込んでいる
- 買収後の絵:従業員の処遇、既存事業の継続、旧オーナーの関与など、成約後の運営について触れているか
逆に、テンプレートをそのまま流したような書面は、条件が良くても後で大きく動く可能性があります。金額と熱量は必ずしも一致しません。
最初に確認する5項目|価格・スキーム・資金・期限・前提
受領したら、まず次の5項目を機械的に拾います。読み込む前に「拾う」作業を先にやることで、抜けが出ません。
| 項目 | 見るところ | 抜けていたら確認する |
|---|---|---|
| 1. 価格 | 金額・レンジの有無・前提となる財務数値・調整条項の有無 | 「何を前提にした金額か」を必ず聞く |
| 2. スキーム | 株式譲渡か、事業譲渡か、会社分割等を挟むか。取得割合(100%か一部か) | 割合が書かれていない意向表明は多い。残株の扱いを確認 |
| 3. 資金 | 自己資金か借入か。借入なら金融機関との事前相談の有無 | 資金の裏づけがない意向表明は、期限だけが延びる |
| 4. 期限・工程 | DDの想定期間、基本合意・最終契約・クロージングの目標時期 | 売り手の希望時期と合うかを先に照合する |
| 5. 前提条件 | DDの結果、社内承認、キーパーソンの残留、許認可の承継、主要取引先の同意など | 「誰の同意が要るか」を洗い出す。ここが後の工程を決める |
5項目のうち、新人が軽く扱いがちなのが3の資金と5の前提条件です。資金の裏づけが曖昧なまま独占交渉に入ると、売り手は他の候補を止めたまま数か月を失います。前提条件は、成約までにやるべき作業の一覧そのものです。受領した時点で前提条件を工程表に写しておくと、後の管理が楽になります。
価格の書き方から意図を読む|レンジ・条件付き・調整前提
価格の表現は、買い手の姿勢をよく表します。代表的な四つの型を挙げます。
- 単一金額:「株式価値◯円」と一本で書く型。社内で数字が固まっている場合が多く、動かしにくい反面、確度は高い
- レンジ:「◯円〜◯円」。DDの結果で下限に寄せる余地を残している。売り手には必ず下限で説明し、上限を期待させない
- 条件付き:「役員退職慰労金の支給を前提として」「純資産が◯円以上であることを前提として」など。前提が崩れたら価格も崩れるので、前提の実現可能性を先に検証する
- 調整前提:「クロージング時の運転資本・純有利子負債により調整する」。金額そのものより調整の計算式が実質的な価格を決める
特に調整前提の意向表明は、後で「思っていた手取りと違う」という不満につながりやすい型です。基準となる運転資本の水準をどう決めるか、季節変動をどう扱うかは、この段階で論点として立てておきます。詳しくは「価格調整の考え方」を参照してください。
もう一つ、価格の隣に必ず書かれるのが支払方法です。全額をクロージング時に一括で支払うのか、一部を分割・後払いにするのか、業績連動の後払い(アーンアウト)を入れるのか。表面の総額が高くても、確実に受け取れる金額が小さければ、売り手にとっての価値は下がります。仲介者は総額ではなく「いつ・いくら・どの確からしさで入るか」に翻訳して説明してください。
価格以外の条件に優先順位をつける|売り手の「譲れない順」に並べ替える
意向表明書は買い手の言葉で書かれています。仲介者の仕事は、これを売り手の関心の順番に並べ替えることです。私は次の順で読み直させています。
- 従業員の雇用と処遇:雇用維持の記載、労働条件の変更予定、退職金制度の扱い
- 会社の継続性:商号・ブランド・拠点・事業の継続方針、既存取引先との関係
- オーナーの関与:引き継ぎ期間の長さ、役職、報酬、いつ完全に退くのか
- 個人保証と担保:経営者保証の解除の見通し、個人資産(不動産等)の扱い
- 受け取り方:一括か分割か、後払い部分の条件、税務上の取り扱いの前提
- 時期と確からしさ:いつ終わるのか、途中で止まるリスクはどこにあるのか
この並べ替えを、売り手ごとに作り直すのがコツです。「従業員が最優先」という売り手と「早期に完全に退きたい」という売り手では、同じ意向表明書の評価がまったく変わります。初回面談から積み上げたヒアリングの記録が、ここで効いてきます。オーナーの心情面の読み方は「オーナー心理の理解」で詳しく扱っています。
優先順位をつけたら、「書いていないこと」を洗い出します。従業員の処遇に一言も触れていない、経営者保証について何も書かれていない、といった空白は、意図的な留保か単なる見落としかのどちらかです。どちらであっても、質問して埋めるのが仲介者の役割です。空白のまま基本合意に進むと、必ず後で交渉材料になります。
売り手への説明の型|良し悪しを断定せず、選べる状態にする
最後に、売り手への伝え方です。やってはいけないのは「良い条件だと思います」と評価を断定することです。仲介者が価値判断を代行すると、後で条件が動いたときに責任の所在が曖昧になり、売り手の納得も残りません。次の順序で説明してください。
- 性質の確認:法的拘束力がないこと、DDの結果で条件が動きうることを最初に伝える
- 事実の要約:5項目を、書面のとおり、脚色せずに読み上げる
- 翻訳:価格を「手取りの目安」と「受け取りの時期・確からしさ」に置き換える(税務の断定は避け、顧問税理士への確認を促す)
- 空白の提示:書かれていない論点を並べ、質問するかどうかを売り手に決めてもらう
- 次の選択肢:このまま進む/条件を確認してから判断する/他の候補も見る、の三択を示す
説明の場では、売り手の反応そのものが重要な情報になります。金額に反応が薄く、従業員の記述に食いつくなら、その売り手の判断軸はそこにあります。次の交渉で何を取りに行くかが決まります。複数の意向表明を受け取っている場合の整理は「複数条件の比較表の作り方」に続けてください。
そして、意向表明を受け取ったことは、まだ何の約束でもありません。売り手が急かされていると感じたら、いったん立ち止まる提案をするのも仲介者の仕事です。判断を急がせないことは、結果的に成約後の満足度を高めます。