M&A仲介は、同業からの転職も、金融機関・士業事務所などからの転職も多い仕事です。そこで必ず論点になるのが、前職で知ったことを、新しい職場でどこまで使ってよいかです。ここを曖昧にしたまま走り出すと、本人だけでなく受け入れた会社と、名前の挙がった企業にまで影響が及びます。本稿では、持ち込んではいけないものの線引きと、実務上の段取りを整理します。法的な判断は個別の契約内容によりますので、具体的な適用は弁護士にご確認ください。当社の募集要項は採用情報をご覧ください。

持ち込んではいけないもの|まず物理的な線を引く

抽象的な議論の前に、手元にある物の話から始めます。退職時に、次のものは持ち出しません。持ち出していたら、入社前に処分するか、前職に返却します。

  • 顧客リスト・見込先リスト——紙もデータも。自分で作ったものでも、業務上知り得た情報で構成されていれば同じです
  • 案件の資料——企業概要書、決算書、議事録、提案書、価格の算定資料
  • 社内のひな型・マニュアル——契約書の書式、チェックリスト、料金表。会社の投資でできた資産です
  • メールの転送・クラウドへの退避——「自分宛てに送っただけ」も持ち出しです
  • 個人端末に残った業務データ——退職時に消す。消したことを自分で確認する

名刺は扱いが分かれます。紙の名刺は、会社の費用と時間で得た接点であり、会社の資産として返却を求められることが一般的です。名刺管理システムに入っているデータの持ち出しは、より明確に問題になります。一方、業務外で個人的に築いた関係まで消える話ではありません。境目は契約と就業規則に書いてあるので、辞める前に自分で読むことが出発点です。

「みんなやっている」という言い方は、この分野では通用しません。争いになったときに見られるのは、業界の慣行ではなく、その人が何を持ち出したかという事実です。

競業避止義務をどう読むか

競業避止義務は、退職後に同種の業務へ就くことを一定期間制限する約束です。誓約書や就業規則に置かれていることが多く、あればいつでも有効というものではなく、内容によって効き方が変わります。一般に、次のような点が見られるとされています。

見られる点確認すること
守るべき利益があるか営業秘密や特別な顧客関係など、保護に値するものが実際にあるか
制限の範囲期間・地域・対象業務がどこまで広いか。無限定に近いほど重く見られにくい
本人の立場経営に近い立場か、一般の担当者か
代償の有無制限に対する手当や退職金の上乗せがあるか

ここで大事なのは、自己判断で結論を出さないことです。「この誓約書は無効だと思う」という判断を本人がして進めるのが、いちばん危ない形です。文面を持って弁護士に相談すれば、短時間で見通しが立ちます。費用と時間を惜しむ場面ではありません。具体的な適用は弁護士にご確認ください。

受け入れる側にも責任があります。前職の誓約書の有無を確認せずに採用し、前職の顧客へアプローチさせれば、会社そのものが当事者になります。採用選考の段階で、誓約書の有無と内容を確認することは、候補者を疑う行為ではなく、双方を守る手続きです。

頭の中に残っている情報の扱い

物は返せます。難しいのは、記憶として残っているもののほうです。前職で「A社が承継を検討している」と知っていた場合、入社後にA社へ提案してよいのか。ここは線を引いておく必要があります。

  • 秘密保持義務は退職後も続く——退職で消えるのは職務であって、守秘の約束ではありません。期間の定めは契約によります
  • 「知っていること」と「使うこと」は別——忘れることはできませんが、それを新しい職場の活動に使わないことは選べます
  • 前職の案件の状況を新しい同僚に話さない——雑談の形で漏れることがいちばん多い経路です
  • 公知の情報から始め直す——公表されている企業情報や、自分が新たに得た接点から積み上げる

実務的には、入社時に「触れない先」を自分で書き出しておくのが確実です。前職で担当した先、資料を見た先、社内で案件として上がっていた先。書き出して上長と共有しておけば、後から別の担当がアプローチしたときに「なぜその先を知っていたのか」と問われる事態を避けられます。記録があることが、身を守ります。

逆に、持ち込んでよいものもあります。仕事の型、業界の理解、進め方の作法。これらは経験であって、特定の会社の秘密ではありません。異業種からの転職で何が活きるかは「異業種からM&A仲介に転職するには」で扱っています。

入社直後にやりがちな三つの失敗

悪意のない失敗が大半です。よくある形を先に知っておくと避けられます。

  1. 実績を示そうとして、前職の案件を具体的に語る——社内の勉強会や面談の場で、業種・地域・規模まで話すと、特定できてしまいます。事例として話すなら、会社が分からない水準まで抽象化してからにします
  2. 早く数字を作ろうとして、前職の接点に連絡する——最も分かりやすい形の違反になりえます。焦りが判断を鈍らせる典型です
  3. 前職の批判をする——法的な問題にはなりませんが、依頼者から見ると「この人は辞めたら当社のことも話すのか」と映ります。信頼の問題として直結します

三つ目は見落とされがちです。譲渡を検討している経営者は、担当者が前の職場をどう語るかをよく見ています。守秘義務を守る人かどうかは、契約書ではなく、雑談の態度に表れます。守秘義務が生活の範囲にまで及ぶことについては「守秘義務は生活にも及ぶ」で扱っています。

受け入れる側の設計としては、入社後しばらくは前職の領域に触れない担当配分にする、最初の提案先を上長が確認する、といった運用が有効です。本人の自制心だけに任せない仕組みにしておきます。

まとめ|前職との関係は、次の職場での信用になる

要点を整理します。

  • リスト・資料・ひな型・業務データは持ち出さない。名刺の扱いは契約と就業規則を自分で読んで確認する
  • 競業避止義務は内容によって効き方が変わる。自己判断せず、文面を持って弁護士に相談する
  • 秘密保持義務は退職後も続く。知っていることを使わない選択はできる
  • 入社時に「触れない先」を書き出し、上長と共有して記録に残す
  • 前職の案件を具体的に語らない。前職の批判もしない
  • 受け入れる側も、誓約書の確認と初期の担当配分で本人を守る

前の職場の情報をきちんと扱える人は、次の職場で預かる情報も同じように扱うと見られます。逆もまた同じです。ここは経歴書に書けない部分ですが、依頼者からも同僚からも、いちばん見られている部分でもあります。

選考で何を見られるかについては「M&A仲介の選考で何を見られるか」もあわせてお読みください。

よくあるご質問

A.業務時間内に、会社の情報や書式をもとに作成したものは、会社の資産として扱われるのが一般的です。個人の作成物かどうかの判断は契約内容や作成経緯によりますので、持ち出す前に弁護士にご確認ください。新しい職場で必要なら、一から作り直すほうが確実です。
A.誓約書があることと、その内容がそのまま効くこととは別の問題です。期間・地域・対象業務の範囲、保護すべき利益の有無、代償の有無などによって判断が変わります。自己判断は危険ですので、文面を持参して弁護士にご相談ください。
A.こちらから接触していない場合でも、対応する前に上長へ共有し、経緯を記録に残してください。誓約書の内容によっては受託できない場合があります。記録がないと、後から「こちらから声をかけたのではないか」と疑われても説明できません。
A.会社が特定できない水準まで抽象化していれば、進め方の知見を共有することは問題になりにくいと考えられます。業種・地域・規模・時期を組み合わせると特定されますので、そこを外して「こういう局面ではこう進めた」という型の話にしてください。

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Author & Supervisor

執筆・監修:株式会社プラチナパートナーズ 取締役副社長 神垣 宏康

東京都千代田区(日比谷)のM&A仲介・事業承継アドバイザリーファーム、株式会社プラチナパートナーズ取締役。成功報酬型のもと、中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫で支援しています。役員紹介・会社概要はこちら