本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。案件が止まる原因を並べていくと、驚くほど多くが「資料が出てこない」に行き着きます。そしてその原因の大半は、オーナーの怠慢ではなく依頼の出し方にあります。長大なリストを一度に送りつけ、期限だけ切って待つ——これで動く経営者はいません。本稿では、負担を最小にしながら必要な資料を揃える手順を書きます。受け取った後の整理は「受領資料の整理術」に、DD段階の資料対応は「DD対応の実務」にまとめています。
資料依頼が止まる理由は、たいてい出し方にある
オーナー側の事情を想像してください。通常業務を抱え、社内には案件を知る人がおらず、経理は担当者に任せきりで、資料の在り処すら分からない。そこに三十項目のリストが届く。結果は「後で見る」で終わります。
止まる原因を具体的に分解すると、次の五つに整理できます。
- 量が多すぎる:一度に全部を求めると、どこから手を付けてよいか分からなくなる
- 何に使うか分からない:目的が書かれていない依頼は、優先順位を付けられない
- 作成が必要な資料が混ざっている:「取引先別売上一覧」は、多くの中小企業にそのままの形では存在しない
- 社内に頼めない:経理担当者に依頼すれば案件が露見する。オーナー自身が探すしかない
- 受け渡しが不安:メールで送ってよいのか、社内のプリンタで出してよいのか判断できない
この五つを潰すのが、依頼の設計です。順番を分け、目的を書き、雛形を用意し、分担を決め、受け渡しの方法を先に決める。それだけで資料は流れ始めます。
段階別の依頼順|三段階に分けて出す
| 段階 | 主に依頼するもの | 目的 |
|---|---|---|
| 第1段階(初回面談後) | 決算書・申告書 直近3期分、会社案内・ホームページ、登記事項証明書 | 会社の輪郭と収益構造の把握。案件化の判断 |
| 第2段階(受託後・企業概要書作成期) | 定款、株主名簿、直近の試算表、借入金明細、取引先別売上、従業員名簿(属性のみ)、主要契約書、不動産関係、許認可 | 企業概要書の作成と、買い手候補の選定・打診 |
| 第3段階(基本合意後・DD準備) | 就業規則・賃金台帳・勤怠、固定資産台帳、リース・保険、係争関係、規程類、その他DD資料リスト対応 | デューデリジェンス対応 |
第1段階は三点までに絞ってください。初回面談の直後に十項目を並べると、それだけで気持ちが引きます。決算書3期分さえあれば、初期の概況整理は始められます(「会社概況の初期整理」参照)。
第2段階からは量が増えますが、ここでも優先順位を明示します。企業概要書を書くために先に要るもの(株主名簿、借入明細、売上構成)と、後でよいもの(規程類)を分ける。「まずこの三つを、来週までに」という出し方が最も動きます。
第3段階は買い手側専門家のリストに沿いますが、そのまま転送してはいけません。仕分けて翻訳する手順は「DD対応の実務」に詳述しています。
依頼書の作り方と、こちらが用意する雛形
依頼は口頭でなく、必ず一覧にして渡します。列は次のとおり。
- 番号 / 資料名 / 何に使うか / 形式(原本・写し・データ) / 期間(何期分・何年分) / 担当(オーナー・経理・顧問税理士) / 期限 / 状況
「何に使うか」の列が肝です。「買い手に会社の収益力を説明するため」「株主構成を正確に把握し、後の手続きで問題が出ないようにするため」。理由が書いてあると、優先順位が自分で付けられます。
雛形をこちらが用意する
存在しない資料を求めるときは、必ず入力用の雛形を添えてください。オーナーは数字を埋めるだけの状態にする。当社が用意しているのは次のようなものです。
- 取引先別売上一覧(直近3期・上位20社程度、社名は伏せ字でも可)
- 借入金明細(金融機関名・当初金額・残高・利率・返済期日・担保・保証)
- 従業員名簿(氏名は不要、年齢・勤続年数・職種・雇用形態・給与レンジ)
- 設備・不動産の一覧(所在・所有者・用途・簿価・担保の有無)
- 主要契約の一覧(相手方・契約内容・期間・チェンジ・オブ・コントロール条項の有無)
もうひとつ有効なのが、顧問税理士との分担です。財務・税務資料は税理士事務所が保有していることが多く、オーナーの同意を得て直接やり取りできれば、負担は劇的に減ります。ただし案件の秘密が広がるため、必ずオーナーの同意を先に取り、共有範囲を決めてから連絡してください。士業との連携の作法は「士業・金融機関との連携」に整理しています。
受け渡しの方法と、社内に知られない工夫
受け渡しの設計は、秘密保持そのものです。依頼と同時に方法を決めてください。
- 送付先:会社ではなく本人の希望する連絡先へ。郵送物は自宅か、こちらの事務所で直接受け取る
- データ:パスワード付きの授受か、権限管理のできる保管領域を使う。パスワードは別経路で送る
- 社内の共有領域を使わない:オーナーが社内サーバーに資料をまとめると、従業員の目に触れます
- 印刷の場所:社内の複合機に履歴が残ることがある。必要ならこちらで印刷する
- 面談時に直接受け取る:最も安全な方法です。訪問の口実も併せて相談しておく
受け取った資料は、その日のうちに案件フォルダへ格納し、受領日と内容を記録します。個人情報を含む資料(従業員名簿など)は、必要最小限の範囲でのみ受け取り、氏名が不要なら最初から不要と伝えてください。受け取らない情報は漏れません。この原則は徹底する価値があります。
催促の作法と、出てこないときの代替
期限を過ぎても資料が出てこないとき、責める連絡は逆効果です。次の順で対応します。
- まず理由を聞く:忙しいのか、在り処が分からないのか、出したくないのか。三つで対応がまったく違います
- 探し方を一緒に考える:「顧問税理士に頼めば出ます」「登記は当方で取得できます」。代行できるものはこちらが動く
- 優先順位を下げる:いま要らないものは後回しにする。全部揃わないと進めない、という進め方をしない
- 出したくない場合は理由に向き合う:見せたくない数字があるのかもしれない。追及ではなく、開示の必要性と時期を説明する
- 定例の確認に載せる:都度の催促より、決まった間隔で管理表を一緒に見るほうが負担が軽い
資料が出てこない背景に、オーナーの迷いが隠れていることは非常に多い。「本当に売ってよいのか」という揺れが、資料の遅れとして現れます。催促の前に、意思の確認をする。これは「オーナーの心理に寄り添う」で扱った論点そのものです。
最後に、資料が揃わないまま買い手への打診に進むことだけは避けてください。企業概要書の数字が後から変わると、買い手の信頼を失い、価格の再交渉を招きます。急ぐべきは打診ではなく、資料の整備です。順番を守ってください。