本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。企業概要書(IM)の様式には、たいてい「係争の有無」という欄があります。ここに何も考えず「なし」と書いてしまうのが、資料作成でもっとも危険な一行です。紛争は、訴訟の形をしていないことのほうが多いからです。未払残業の申告、取引先との品質クレーム、近隣からの苦情、内容証明の受領。これらは裁判所に係属していなくても、買い手の判断に影響します。本稿では、何を拾い、どこまで書き、見通しをどう扱うかを型にします。リスク情報全般を出す順番は「リスク情報の開示設計」、書かない判断の基準は「企業概要書で「書かないこと」の決め方」とあわせて読んでください。
「係争なし」と書く前に|紛争は訴訟の形をしていない
オーナーに「訴訟はありますか」と聞くと、ほぼ「ありません」と返ってきます。これは嘘ではなく、質問が狭いのです。実務では、次の粒度で聞き直します。
- 裁判所の手続:訴訟、支払督促、民事調停、労働審判、仮処分、破産・再生手続への関与(債権者としてを含む)
- 行政の手続:労働基準監督署の是正勧告・指導、年金事務所の調査、税務調査での指摘、許認可に関する行政指導
- 裁判外の紛争:内容証明郵便の受領・発送、弁護士名義の通知、労働局のあっせん、労働組合からの団体交渉申入れ
- 取引上のトラブル:品質クレーム、納期遅延による損害賠償の請求、代金の未回収、瑕疵の補修要求
- 人に関するもの:従業員からの未払残業の申告、ハラスメントの申告、労災事故、退職者との係争
- 近隣・環境:騒音・臭気・振動の苦情、産業廃棄物に関する指導
聞き方も工夫します。「トラブルはありますか」ではなく、「ここ5年で、弁護士に相談されたことはありますか」「内容証明が届いたことはありますか」「監督署が来たことはありますか」と、出来事で聞く。抽象的な質問ほど「ない」と答えられます。質問の設計は「質問力を鍛える」も参照してください。
書類からも拾う|ヒアリングだけに頼らない
記憶は薄れます。書類から機械的に拾える経路を押さえておきます。
| 見る場所 | 拾えるもの |
|---|---|
| 総勘定元帳(支払手数料・雑損失・支払報酬) | 弁護士費用の支払い、和解金、賠償金 |
| 貸借対照表の引当金・未払金 | 訴訟損失引当金、未払賠償金 |
| 決算書の注記・税務申告書の別表 | 偶発債務、保証、貸倒れ |
| 顧問弁護士への確認 | 受託中の案件。オーナーの了解を得てから行う |
| 保険証券・保険金の受取記録 | 賠償責任保険の求償、労災上乗せの支払い |
| 社内の苦情記録・品質記録 | 繰り返し起きているクレームの傾向 |
| 労務関係(36協定、賃金台帳、タイムカード) | 未払残業が顕在化する前の兆し |
労務は、紛争として顕在化していなくても金額が大きくなりやすい領域です。引当不足の見方は「簿外債務と引当不足の洗い出し」に整理しています。労働関係の具体的な判断は社会保険労務士・弁護士の領域であり、仲介者は「確認が必要な事実がある」ところまでを示します。
開示の範囲を決める|三つに仕分ける
拾った事実を、性質で三つに分けます。分けないまま「全部書く/全部書かない」で議論すると、判断が感覚になります。
| 区分 | 内容 | 資料での扱い |
|---|---|---|
| 終了済み | 判決・和解・取下げ等で終了し、履行も完了している | 金額・件数が小さく再発性もなければ、要点のみ。再発性のあるクレームは、終了済みでも書く |
| 係争中 | 手続が進行中、または相手方の請求が継続している | 必ず書く。概要・請求内容・手続段階・引当・保険の有無 |
| 潜在的 | 請求は来ていないが、原因事実がある(未払残業、事故、瑕疵の可能性) | 事実と、会社として把握している範囲を書く。評価は断定しない |
判断の基準は、「買い手の意思決定に影響するか」の一点です。金額の大小だけで決めないでください。少額でも、同種のクレームが継続的に起きているなら、それは事業の構造を示す情報です。逆に、金額が大きくても既に終了し保険で処理済みなら、経緯を簡潔に書けば足ります。
もう一つ。会社が原告になっている案件も書きます。売掛金の回収訴訟、取引先への損害賠償請求。これは会社にとって有利な事実に見えますが、回収可能性と訴訟費用の見込みが伴います。有利な側だけを書いて不利な側を落とさない、という基準はここでも同じです。
係争中案件の書き方|見通しは書かない
係争中の案件について、資料に書く項目を固定します。
- 相手方の属性:取引先/元従業員/近隣住民など。個人名・社名は伏せる(IM段階では属性表現にとどめる)
- 概要:いつ、何が起きて、何を争っているか。事実関係を時系列で簡潔に
- 請求の内容:請求額、または金銭以外の請求(差止め、地位確認など)
- 手続の段階:提訴済み/第◯回期日終了/和解協議中/調停中/交渉段階
- 代理人:弁護士が受託しているか
- 会計上の処理:引当金の計上の有無と金額
- 保険:賠償責任保険等の適用可能性(確定していなければ「確認中」)
ここで守るべき一線があります。勝敗や着地額の見通しを、アドバイザーが書かないこと。「当社に非はなく、敗訴の可能性は低いと考えられます」と書きたくなりますが、これは法律判断であり、仲介者の領域ではありません。書けるのは「会社の認識」としての記述です。「会社は請求に理由がないとして争っており、代理人弁護士が受託している」と書けば、それは事実の記述になります。見通しについてのご判断は、弁護士にご確認くださいと明示します。
もう一つ、金額の書き方です。請求額はそのまま書きます。「実際にはこの半分で収まる見込み」といった調整を、資料の側で加えないでください。大きく見せないのと同様に、小さく見せないこと。事実は、有利な方向にも不利な方向にも加工しないというのが資料作成の基準です。
開示しないと何が起きるか|三段階で効いてくる
「書かなければ気づかれないのでは」という発想は、実務では成り立ちません。紛争は、次の三段階で必ず表に出ます。
- デューデリジェンス:法務DDでは顧問弁護士への照会、訴訟費用の勘定分析、労務DDでは賃金台帳と勤怠の突合が行われます。ここで出てくると、価格の再交渉か、条件の厳格化が起きます
- 最終契約の表明保証:「係争は存在しない」旨の表明保証を入れた後に発覚すれば、表明保証違反として補償の対象になります。譲渡代金を受け取った後に、返す話になるということです
- 信頼の毀損:最も影響が大きいのはこれです。一件の未開示は、他のすべての記述への疑いに広がります。買い手は資料を前提に検討を進めているので、前提が崩れれば全部を確認し直すことになり、案件そのものが止まります
逆に、早い段階で開示された紛争は、条件に織り込むことができます。引当てを価格の前提に反映する、特別補償の対象にする、クロージングの前提条件として解決を求める、エスクローを設定する。手段はあります。手段が使えなくなるのは、遅れて出てきたときだけです。
売り手から「これは書かないでほしい」と言われたときの対応も決めておきます。まずなぜ書きたくないのかを伺います。多くは従業員や取引先に伝わることへの懸念で、開示の時期と範囲を調整すれば解決します。それでも開示しない選択をされる場合は、上の三段階で何が起きるかを具体的にお伝えしたうえで、ご判断いただきます。何を開示するかを決めるのはオーナーであり、アドバイザーはその判断材料を正確にお渡しする立場です。伝えた内容と決めたことは記録に残します(「面談・電話の記録の残し方」)。