本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。企業概要書(IM)をつくるとき、新人が時間を使うのは「何を書くか」ですが、実務で判断が要るのは「何を、いまは書かないか」のほうです。ここを感覚で決めると、譲渡企業が特定されて従業員や取引先に影響が及んだり、逆に、後で出てくる事実を隠したと受け取られて交渉が壊れたりします。IMは事実を正確に伝えるための資料であり、良く見せるための資料ではありません。この前提を外さずに、削る判断の基準を型にします。IM全体の組み立ては「企業概要書(IM)作成の実務」、財務パートは「IMの財務パートの書き方」を参照してください。
「書かない」には三種類ある|伏せる・後に回す・そもそも書かない
まず、ひとくちに「書かない」と言っても、実務では性質のまったく違う三つが混ざっています。これを分けないまま議論すると、「隠すのはよくない」という一般論と「特定されたら困る」という現実論が噛み合わなくなります。
| 種類 | どういうものか | 後でどうなるか |
|---|---|---|
| 伏せる(抽象化する) | 社名・所在地・取引先名など、そのまま書くと特定につながるもの。業種や規模の表現に置き換える | 秘密保持契約を結んだ後、段階的に開示する |
| 後に回す | 事実だが、初期段階の判断には不要で、量が多く誤解を招きやすいもの(個別契約の条文、細目の明細など) | デューデリジェンス(DD)の資料として提出する |
| そもそも書かない | 裏づけがなく、事実として確認できないもの(伝聞の市場規模、根拠のない見通し、他社の取引条件) | 書かなければ問題にならない。書くと訂正が必要になる |
この三つに当てはまらないもの、すなわち裏づけがあり、判断に影響し、いずれ必ず出てくる事実は、IMに書きます。ここを削ると、後述するとおり最も高い代償を払うことになります。
特定につながるのは「一つの情報」ではなく「組み合わせ」
新人がやりがちなのは、社名と所在地さえ伏せれば匿名だと考えることです。実際に特定が起きるのは、単独では無害な情報が重なったときです。
- 所在地の粒度:「関東」なら広いが、「県庁所在地の隣接市」まで書くと候補が一気に減る
- 許認可・免許の種類:保有者数が少ない業種では、それだけで数社に絞られる
- 設備・機械の型式や規模:「国内に数台」と書けば、同業者には分かる
- 沿革の年号:創業年と事業転換の年を並べると、業界内では一意に近づく
- 主要取引先の業種と地域:「地場の大手完成車メーカー向け」のような書き方は実質的に社名を書いているのと同じ
判断の目安として、私は「同業の人が読んで、三社まで絞れるか」で見ています。三社まで絞れる書き方なら、粒度を一段上げます。逆に、業界外の買い手候補が読んで検討できないほど抽象化してしまうと、資料としての意味がなくなります。匿名性と、判断できる情報量は、どちらかを犠牲にする関係ではありません。「どの情報が特定に効いているか」を一つずつ特定して、そこだけ粒度を上げるのが正しい削り方です。
ノンネームシート段階の書き分けは「ノンネームシート作成の実務」に詳しく書いています。IMはNDA締結後の資料なので、ノンネームより踏み込みますが、取引先名・従業員の氏名・図面の固有情報などは、IM段階でもまだ伏せるのが実務の標準です。
確認できない数字は書かない|出所のない一行が後で効いてくる
IMに載せる数字は、どの資料の、どこから取ったかを言えるものだけにします。実務で危ないのは、悪意ではなく善意で入り込む数字です。
- オーナーの記憶による市場シェア(「たぶん県内で三番目」)
- 出所の分からない業界の平均値や、同業他社の取引条件
- 会議での口頭説明をそのまま書いた受注見込み
- 試算表からの抜き書きで、決算書と突き合わせていない数字
これらは、DDの初期で必ず崩れます。崩れたときに問題になるのは数字そのものではなく、「この資料に書いてあることは確かめないと信用できない」という評価が資料全体に及ぶことです。一行の訂正が、二十行の再検証を呼びます。
書きたいが裏づけが弱いときは、消すか、出所と限界を明示して書くかの二択です。「◯◯協会の公表資料(2025年版)による全国値。当社の商圏との差異は未検証」と添えれば、それは事実の記述になります。断定して書けないものを、断定せずに書く方法はあります。数字の出所を揃える作業については「決算書の加工と整理」も参照してください。
不利な事実は「削る」のではなく「書き方を設計する」
ここが本稿でいちばん大事なところです。買い手の判断に影響する不利な事実は、削ってはいけません。取引先の集中、キーマンへの依存、係争、簿外の負担、設備の老朽化。これらは、いずれもDDで出てきます。出てきたときに「IMに書いていなかった」という一点が、価格の再交渉や白紙撤回の理由になります。
一方で、事実を並べるだけの書き方が正しいわけでもありません。不利な事実には、ほぼ必ず背景と、現在の対応状況があります。それを同じ場所に書くのが、資料設計としての正解です。
| やってはいけない | 実務としての書き方 |
|---|---|
| 取引先の集中に触れない | 上位取引先の比率と取引年数、契約形態、直近の取引量の推移を並べて示す |
| 係争を「特になし」とする | 案件の概要、請求額、現在の手続段階、代理人の有無を書く(見通しの断定は避け、弁護士の領域とする) |
| 老朽設備を書かない | 主要設備の取得年と稼働状況、直近の修繕費、今後必要と見込まれる更新の有無を示す |
| キーマン依存を「強い組織」と表現する | 誰がどの機能を担っているかを職務で記述し、引継ぎの想定期間まで書く |
リスク情報をどの順で出すかは、案件の性質によって変わります。先に出すか後に回すかの判断軸は「リスク情報の開示設計」にまとめています。
削った情報を、どの段で出すか|開示の道筋まで決めて初めて完成する
「書かない」と決めた情報は、消えるわけではありません。いつ、誰に、どの形で出すかまで決めて、初めて判断が完了します。ここを決めずに削ると、後工程の担当者が「これは出していいのか」と毎回止まります。
実務では、IMを作り終えた時点で次のような対応表を一枚つくり、案件フォルダに置いておきます。
- 項目:伏せた情報の名称(例:主要取引先A社の社名)
- 理由:特定リスク/量が多い/未確認 のどれか
- 出す段:トップ面談時/意向表明後/DD資料として
- 出し方:口頭のみ/資料で提示/データルームに格納
- オーナーの了解:取得済みか、未確認か
最後の一行が抜けやすいので注意してください。何を出すかはオーナーが決めることで、アドバイザーが決めることではありません。「この情報はDDで必ず出ます。いま出すか、その段で出すかを決めましょう」と選択肢の形で示し、決めたことを記録に残します。これは売り手を守るためであると同時に、後で「聞いていない」という食い違いを防ぐためでもあります。
IMを買い手が読む順に設計する話は「企業概要書(IM)作成の実務」、想定される質問を先回りする話は「想定質問リストの作り方」に続きます。
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