鍼灸院、あん摩マッサージ指圧院、そして高齢者宅を訪問する訪問マッサージ——この分野の事業は、施術という高度に属人的な技術のうえに成り立っています。だからこそ、事業承継の難しさも他業種とは質が違います。「自分の技術を引き継げる人がいない」「息子は別の道を選んだ」「患者さんは通ってくださっているのに、続ける体力がなくなってきた」。本稿では、こうしたお悩みを抱える経営者様に向けて、鍼灸院・マッサージ院のM&Aをどう組み立てるかを整理します。
鍼灸・マッサージ院でM&Aが選ばれる理由
この分野の事業には、承継を難しくする構造的な要因が三つあります。
第一に、国家資格に基づく事業であることです。はり師・きゅう師、あん摩マッサージ指圧師はいずれも国家資格であり、資格を持たない人が施術を行うことはできません。したがって「事業を買いたい」という買い手も、施術を担える人材を確保できなければ事業を継続できません。この点は飲食店や小売店の譲渡とはまったく異なります。
第二に、患者様が院そのものではなく「先生」についているケースが多いことです。経営者様が長年施術してこられた院ほどこの傾向は強く、経営者様が退けば患者様も離れる——という懸念が、買い手にとって最大のリスクになります。
第三に、収益構造が保険(療養費)と自費のどちらに寄っているかで、事業の性格がまったく変わることです。療養費に依存する事業は制度改正の影響を直接受け、自費に依存する事業は集客力と単価設定の巧拙が収益を決めます。
それでも、この分野でM&Aが成立する場面は着実に増えています。買い手として想定されるのは、複数院を展開する同業の法人、訪問マッサージを手がける事業者、整骨院・整体・リラクゼーションのグループ、そして介護・リハビリ分野の事業者です。いずれも、既存の患者基盤と施術者、そして立地をまとめて引き継げることに価値を見出します。とりわけ訪問マッサージ事業は、高齢者宅への定期訪問という安定した収益基盤を持つため、介護事業者からの関心が高い領域です。
施術者の確保が、そのまま事業の上限になる
買い手が最初に確認するのは、施術者の在籍状況です。ここで問われるのは人数だけではありません。
- 経営者様以外に、常勤で施術を担っている有資格者が何人いるか
- その方々の在籍年数と、担当している患者様の人数
- 経営者様が担当している患者様が全体の何割か
- 施術者の年齢構成と、今後数年の退職見込み
- 雇用契約か業務委託か、その区分が実態と整合しているか
最後の点は、この業界で特に整理が甘くなりやすい項目です。施術者を業務委託として扱っているが、実際には勤務時間も施術内容も院が指示している——という状態は珍しくありません。デューデリジェンスでこの点が問題視されると、過去に遡った社会保険料や残業代の負担が論点になり、価格の減額や補償条項の要求につながります。譲渡を考え始めた段階で、契約形態と実態の整合を点検しておくことをお勧めします。
そして、経営者様への依存度です。経営者様が全患者様の施術を担っている院では、事業の価値の大半が経営者様個人に紐づいていることになります。この状態でも譲渡が成立しないわけではありませんが、その場合は「譲渡後も一定期間は施術を続けていただく」という引き継ぎ期間が条件になるのが一般的です。逆に、勤務する施術者が患者様を持ち、経営者様は経営に軸足を移している院は、承継の見通しが立てやすく評価も安定します。
保険(療養費)と自費|収益構成をどう説明するか
はり・きゅう、あん摩マッサージ指圧については、一定の要件のもとで健康保険から療養費が支給される仕組みがあります。一般に、医師の同意書等が必要とされ、対象となる症状も定められています。また、患者様が費用を全額立て替えずに済むよう、施術管理者が保険者へ請求を行う受領委任の取扱いが認められています。
M&Aの場面では、この療養費と自費の構成比が、事業の評価を大きく左右します。
| 収益の型 | 買い手が見るポイント |
|---|---|
| 療養費中心(訪問マッサージ等) | 同意書の取得状況と更新の管理、医療機関との連携、患者様一人あたりの月間訪問回数、返戻・査定の履歴。 |
| 自費中心(院内施術) | 新規患者の獲得経路、リピート率、平均単価、回数券の販売状況と未消化残高。 |
| 混合型 | 両者の比率と、それぞれの採算。制度改正が起きたときの影響度。 |
療養費に依存する事業では、書類の管理が事業の生命線です。同意書の有効期間の管理、施術報告書の作成、施術録の保存——これらが整っていないと、返戻や過誤調整が発生し、収益が不安定になります。買い手はこの管理体制を必ず確認しますので、日々の記録が整っていることは、そのまま事業価値になります。
自費中心の院では、回数券やプリペイド式のチケットの取り扱いに注意が必要です。販売済みで未消化の分は、将来の施術義務を伴う前受金であり、貸借対照表上の負債です。買い手はこの残高を確認して価格交渉に織り込みますので、残高を正確に把握しておく必要があります。
療養費の支給要件、同意書の様式と有効期間、受領委任の取扱いに関する要件は、制度改正によって変わることがあります。個別の取扱いについては、所管の厚生局・保険者および専門家にご確認ください。
開設届と法人格|承継スキームの選び方
施術所は、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律に基づき、所在地を管轄する保健所へ開設の届出を行って運営されます。この届出は開設者に紐づくものですので、承継のスキームによって扱いが変わります。
法人化されている場合
院を運営する法人の株式を譲渡すれば、開設者である法人は変わりません。届出の内容に変更が生じる場合(管理者の変更など)には所要の手続きが必要ですが、事業の主体は連続します。賃貸物件の契約も、患者様との関係も、雇用も維持されるため、実務上は最もスムーズな形です。
個人事業の場合
経営者様が個人として開設している院では、株式が存在しないため事業譲渡の形をとることになります。この場合、譲受側が新たに開設の届出を行い、経営者様は廃止の届出を行う——という流れが一般的です。療養費の受領委任の取扱いについても、施術管理者の変更等に伴う手続きが必要になると考えられます。空白期間が生じないよう、届出の時期を含めたスケジュール設計が重要です。
個人事業の譲渡では、譲渡対象を明確に定める必要もあります。内装・設備・備品、患者様の情報(個人情報の取り扱いには十分な配慮が必要です)、屋号、賃貸借契約上の地位、従業員の雇用——これらを一つひとつ移転の対象として整理します。とりわけ賃貸物件については、賃借人が変わることになりますので、賃貸人の承諾が原則として必要です。事業譲渡と株式譲渡の一般的な違いは「株式譲渡と事業譲渡の違い」で解説しています。
買い手が見るポイントと、譲渡前に整えたい準備
この分野のデューデリジェンスで論点になりやすいのは、労務、記録、そして前受金です。次の準備が有効です。
- 施術者の雇用契約書・業務委託契約書を確認し、契約形態と実態の整合を点検する
- 有資格者の免許証を揃え、施術管理者の要件充足を確認する
- 療養費を扱う場合、同意書・施術報告書・施術録の保存状況と、返戻の履歴を整理する
- 回数券・チケットの販売実績と未消化残高を一覧化する
- 患者様の来院データ(新規・リピート・離脱)を月次で整理する
- 自費メニューの単価と構成、値上げの履歴を整理する
- 賃貸借契約の条項、とりわけ賃借人の変更や経営権の異動に関する定めを確認する
- 広告表現が法令上の制限に照らして適切か点検する
広告表現については、施術所の広告に関しては法令上の制限があるとされており、効能をうたう表現が問題になることがあります。ウェブサイトやチラシの表現に不安がある場合は、譲渡前に見直しておくほうが安全です。買い手にとって、承継後に是正を求められる可能性は避けたいリスクだからです。
また、経営者様の個人資産と事業資産が混在していないかも確認しておきます。施術機器や車両が個人所有のまま事業に使われている場合、譲渡対象の整理が必要になります。
まとめ|技術ではなく、仕組みを引き継げるように
鍼灸院・マッサージ院のM&Aで最も大きな壁は、事業の価値が経営者様個人の技術と信頼に集中していることです。この壁を低くする方法は一つしかありません。経営者様以外の施術者が患者様を担当し、集客の経路が院の仕組みとして回り、記録と請求の管理が誰でも引き継げる形になっていること——つまり、技術ではなく仕組みを引き継げる状態にしておくことです。
これは一朝一夕にできることではありませんが、逆にいえば、時間をかければ確実に近づけるものでもあります。譲渡をすぐに決めるつもりがなくても、この方向で準備を進めることは、経営者様ご自身が現場を離れる時間をつくることにも直結します。整骨院・接骨院の承継については「整骨院・接骨院のM&A・事業承継」もあわせてご参照ください。
当社プラチナパートナーズは、成功報酬型のもと、医療・ヘルスケア分野を含む中小企業の事業承継・会社売却を初回相談から成約まで一気通貫でご支援しています。守秘義務を徹底のうえ対応いたしますので、どうぞお気軽にご相談ください。