従業員の退職金は、譲渡の場面で二重の意味を持ちます。会社にとっては将来の支払い義務であり、従業員にとっては長年の約束です。前者は価格に、後者は統合の成否に直結します。制度ごとの扱いを整理しておきます。
株式譲渡なら、制度はそのまま続く
株式譲渡では雇い主である会社が変わらないため、退職金規程も、勤続年数も、そのまま続きます。従業員の権利は何も変わりません。
買い手は、この将来の支払い義務を引き継ぎます。したがってデューデリジェンスでは、退職金規程の内容、自己都合・会社都合の支給率、現時点で全員が退職した場合の要支給額(退職給付債務)が確認されます。
引当金が計上されていない、あるいは要支給額に対して大きく不足している場合、その差額は実質的な債務として価格に反映されます。中小企業では引当不足が珍しくないため、事前に把握しておきたい論点です。
事業譲渡では、いったん精算するか通算するか
事業譲渡では、従業員は転籍となり、労働契約が別法人に移ります。このとき勤続年数は法律上当然には引き継がれません。
選択肢は二つです。譲渡会社でいったん精算して支給するか、買い手が勤続年数を通算して引き継ぐか。前者は従業員に現金が入りますが、退職所得控除の勤続年数が切れます。後者は将来の退職金が守られますが、買い手が引当の負担を負うため価格の交渉材料になります。
どちらにするかは、従業員への説明の前に決めておく必要があります。詳しくは転籍の同意で扱っています。
中退共・特定退職金共済の扱い
中小企業退職金共済(中退共)に加入している会社は多くあります。この場合、掛金は会社が拠出し、退職金は機構から従業員に直接支払われます。
株式譲渡では、会社が加入者のまま変わらないため、原則として影響はありません。ただし、買い手企業が中小企業者でなくなる場合など、加入資格に関わる事情が生じることがあります。
事業譲渡や会社分割で従業員が別法人に移る場合は、共済契約の引き継ぎ(通算)の手続きが必要になります。手続きには期限が定められていることがあるため、日程を決めた段階で制度の窓口に確認してください。
引当と実態のずれを把握する
中小企業では、退職給付引当金を計上していない、あるいは簡便な方法で計算しているケースが多くあります。決算書の数字が、実際の支払い義務を表していないことがあります。
準備としてお勧めしているのは、現時点で全員が自己都合退職した場合の要支給額を試算しておくことです。規程と勤続年数から計算できます。
この数字を把握していれば、買い手から指摘されたときに驚かずに済みます。把握していない状態で指摘されると、保守的に見積もられます。労務の点検と併せて進めると効率的です。
制度を統合するとき
譲渡後、買い手が自社の退職金制度に統一したいと考えることがあります。ここで問題になるのが不利益変更です。
退職金は賃金の後払いとしての性質を持つとされ、支給水準の引き下げは労働条件の不利益変更にあたります。就業規則の変更による場合、変更の必要性、内容の相当性、労働組合等との交渉の状況といった事情を踏まえた合理性が求められます。
実務では、変更時点までの分は従前の水準を保障し、それ以降を新制度とするという設計が採られることがあります。いずれにしても、一方的な引き下げはできないという前提で考えてください。
売り手として、何を約束できるか
従業員に説明する際、「退職金は変わりません」と言いたくなります。しかし、譲渡後の制度変更を売り手が縛ることはできません。
実務でお勧めしているのは、最終契約に一定期間の労働条件維持を盛り込むことです。「クロージング後○年間は、従業員の労働条件を現状より不利益に変更しない」といった条項です。買い手が応じるかは交渉次第ですが、求める価値はあります。
そのうえで、従業員には約束できる範囲で正確に伝えます。「契約で○年間は変えないことになっている」と言えるのと、「大丈夫だと思う」としか言えないのとでは、受け止め方が違います。
役員退職金とは別のもの
混同されやすいのですが、従業員の退職金と役員退職金は別の制度です。役員退職金は株主総会の決議を要し、支給額が不相当に高額と判断されれば損金になりません。
オーナーの役員退職金は、譲渡の設計において株価や手取りに大きく影響します。一方、従業員の退職金は、企業価値の評価と統合の成否に影響します。それぞれ別の論点として整理してください。
どちらも、譲渡の直前に慌てて決めるものではありません。役員退職金の限度も併せてご覧ください。