本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。中小企業の譲渡案件で、価格の前提がいちばん大きく動くのは不動産です。帳簿に載っている金額と、いま売買される金額と、税金の計算に使う金額は、それぞれ別のものです。ここを混ぜたまま資料をつくると、デューデリジェンス(DD)で数字が動き、価格の再交渉の理由になります。資料は事実を正確に伝えるためのものであり、会社を良く見せるためのものではありません。含み益が出る土地も、含み損を抱えた建物も、同じ基準で同じ粒度で書く。その前提で、四つの価額の使い分けと、鑑定を取る判断を型にします。純資産法そのものの考え方は「純資産法の実務」を参照してください。
まず「誰が持っているか」を確かめる|評価より先に来る作業
評価の話に入る前に、必ず片づける確認があります。その不動産が、譲渡対象の会社のものかどうかです。中小企業では、ここがきれいに整っていないことが珍しくありません。
- 名義:法人名義か、オーナー個人名義か、先代名義のままか。登記簿(全部事項証明書)で確認する
- 共有:親族との共有持分になっていないか。共有だと、譲渡後の使用条件を別途決める必要がある
- 賃貸借:個人名義の土地に法人の建物が建っている場合、地代の有無と契約書の有無。無償なら借地権の論点が出る
- 担保:抵当権・根抵当権の設定状況と被担保債権。極度額と実際の借入残高は別物なので、両方を押さえる
- 現況と登記の差:未登記の増築部分、地目と実際の利用、境界未確定、越境物
この確認を飛ばして評価額だけを載せると、DDで「そもそも会社の資産ではなかった」という事態になります。個人資産と法人資産の切り分けは「個人資産と法人資産の切り分け」に整理しています。初期段階での確認の順番は「不動産・借入・保証の初期確認」が対応します。
四つの価額は、目的が違うから金額も違う
不動産には複数の「金額」があります。どれが正しいという話ではなく、何のために作られた数字かが違います。この違いを説明できないまま資料に数字を並べると、買い手から出所を問われた瞬間に止まります。
| 価額 | 何のための数字か | どこで手に入るか |
|---|---|---|
| 簿価(帳簿価額) | 取得価額から減価償却を引いた会計上の数字。取得が古いほど時価から離れる | 固定資産台帳・貸借対照表 |
| 固定資産税評価額 | 固定資産税・都市計画税・登録免許税・不動産取得税の計算に使う。3年ごとに評価替え | 固定資産税の納税通知書、評価証明書 |
| 相続税評価額(路線価等) | 相続税・贈与税の計算に使う。毎年7月に公表される | 国税庁の路線価図・評価倍率表 |
| 不動産鑑定評価額 | 不動産鑑定士が鑑定評価基準に基づいて求める価格。売買の判断材料になる | 鑑定機関に依頼(有償) |
公的な評価には水準の目安があり、相続税評価額は地価公示価格の8割程度、固定資産税評価額は7割程度を目安として定められています(国税庁・総務省の公表資料による)。ただしこれは「評価の水準」であって、実際に売買される金額との関係を保証するものではありません。市街地の一等地と、買い手が限られる工場用地では、公的評価と実勢の距離がまったく違います。「路線価の8割戻しが時価」といった機械的な換算を資料に書くのは避けてください。
参考として使える無償の情報には、国土交通省の地価公示・都道府県地価調査、同省の不動産情報ライブラリで見られる取引価格情報があります。いずれも公表年と地点を明記して使い、自社物件との条件差(接道、形状、用途地域、面積)が未検証であることを添えます。
段階ごとに要求される精度が違う|初期は概算、後工程で確定させる
実務では、案件の進行に合わせて精度を上げていきます。最初から鑑定を取ると、費用と時間をかけたのに案件が動かない、ということが起きます。
| 段階 | 使う数字 | 資料への書き方 |
|---|---|---|
| 初期面談・概算の価格レンジ | 簿価+固定資産税評価額・路線価による概算 | 「公的評価に基づく概算。時価とは異なる」と明記し、レンジで示す |
| 企業概要書(IM) | 同上+所在地の粒度を調整 | 面積・用途・所有形態・担保の有無を書く。金額は概算である旨を必ず添える |
| 意向表明・基本合意 | 必要に応じて鑑定または簡易調査 | 価格の前提として、どの数字を使ったかを明記する |
| デューデリジェンス | 鑑定評価、現地調査、境界・越境の確認 | 買い手側の調査結果と突き合わせる |
ここで大事なのは、初期段階の数字が概算であることを、売り手にも買い手にも同じ言葉で伝えておくことです。概算のまま期待値が固まると、後で正確な数字が出たときに「話が違う」となります。期待値の調整については「期待値調整の技術」を参照してください。
鑑定を取るかどうか|取る場面と、取らない場面
不動産鑑定は有償で、期間もかかります。費用と期間は物件の数・種類・地域によって大きく変わるため、案件ごとに鑑定機関から見積もりを取るのが前提です。相場を資料に書かないでください。そのうえで、取る・取らないの判断軸は次のように整理できます。
| 鑑定を検討する場面 | 理由 |
|---|---|
| 不動産が総資産に占める比率が高い | 不動産の金額がそのまま価格の議論になるため、概算のままでは交渉が進まない |
| 取得が古く、簿価と実勢が大きく離れていると見込まれる | 含み損益の規模が価格と税負担の両方に効く |
| 公的評価の参照が難しい物件 | 路線価のない地域(倍率地域)、市街化調整区域、特殊用途の工場・倉庫など |
| 売り手と買い手の評価が大きく食い違っている | 第三者の評価を挟むことで、議論の土俵をつくれる |
| 親族間・関係会社間で不動産を移す前提がある | 価額の妥当性の説明が必要になる(税務の判断は税理士の領域) |
逆に、賃借している拠点しかない案件、不動産の金額が価格の議論を左右しない案件では、鑑定を取らない判断も正しいです。その場合は「鑑定は取得していない。簿価と公的評価を記載している」と資料に明記します。取らなかったことを書かないと、書いてある数字が鑑定額だと受け取られかねません。
誰が費用を負担するかも、先に決めておきます。売り手が自ら取るのか、買い手がDDの一環として取るのかで、出てくる数字の位置づけが変わります。アドバイザーが金額の結論を出すことはありません。鑑定は鑑定士の業務であり、こちらの役割は「どの数字が要るか」「いつまでに要るか」を工程に置くことです。
含み損益をどう書くか|良い方向にも悪い方向にも同じ基準で
含み益のある土地は書きやすく、含み損のある建物は書きにくい。この非対称が、資料のいちばん危ないところです。片方だけを書いた資料は、DDで必ず反対側が出てきます。そのとき問題になるのは金額の差ではなく、「この資料は都合のよい部分だけを書いている」という評価が、不動産以外の記述にまで及ぶことです。
実務では、次の形で一覧にします。含み益・含み損のどちらも、同じ列に同じ精度で並べます。
- 物件:所在地(IM段階では粒度を調整)、地積・延床面積、用途
- 所有形態:法人所有/個人所有/賃借、共有持分の有無
- 簿価:土地・建物を分けて記載
- 参照した評価:固定資産税評価額/路線価/鑑定評価額のどれか、その時点
- 差額:簿価との差。マイナスも同じ欄に書く
- 担保:設定の有無、被担保債権、極度額
- 備考:境界未確定、未登記部分、越境、遊休、修繕の必要性
さらに、含み益は「そのまま手取りにはならない」ことを、売り手にも先に伝えておきます。含み益のある資産を売却すれば法人に課税が生じ、その後に株主へ移す段階でも課税があります。株式譲渡と資産の売却では税負担の構造が違うため、具体的な計算と適用は税理士にご確認くださいと明示したうえで、資料には「税負担は未考慮」と注記します。ここを曖昧にしたまま含み益だけを大きく見せると、期待値が独り歩きします。
不動産に付随する環境の論点(土壌・アスベスト等)は、価格に効く場合があります。確認の手順は「環境リスクの扱い」にまとめました。簿外の負担全般は「簿外債務と引当不足の洗い出し」を参照してください。