本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。拠点が三か所、事業が二本、さらに不動産を持つ関連会社が一社。中小企業でも、この程度の広がりを持つ会社は珍しくありません。こうした会社の初回面談で「会社ごと譲るつもりです」と言われても、そのまま受け取らないでください。経営者ご自身が、どこまでが譲渡対象になり得るのかを整理しないまま話していることが多いからです。初期段階で仮に切ってみる作業をしておくと、資料依頼の範囲も、買い手候補の選び方も、想定される価格の考え方も変わります。本稿では、その仮置きの手順を型にします。
初期に「仮に切ってみる」意味
譲渡対象の範囲は、最終的には買い手との交渉で決まります。それでも初期に仮置きするのは、次の三つのためです。
- 資料依頼の範囲が決まる:全社の資料を一度に求めると、経営者の負担が過大になります。仮の範囲があれば、優先順位をつけて依頼できます
- 買い手候補の性質が変わる:本業だけを求める相手と、不動産まで含めて評価する相手は別です。範囲が決まらないと、候補の当たりがつきません
- 経営者の考えが整理される:「これは残したい」「これは一緒でよい」が言語化されます。この言語化自体が、初期面談の成果です
注意点として、仮置きはこちらが決めるものではありません。切ってみた結果を材料として示し、経営者に考えていただくためのものです。「この部門は外しましょう」と先に結論を置くと、本来なら価値のあるものを見落とします。
切り分けの軸を並べる
どこで切れるかを考えるとき、見る軸は一つではありません。次の六つを並べて、それぞれで線が引けるかを確かめます。
| 軸 | 確かめること | 切りにくくなる要因 |
|---|---|---|
| 収益 | 部門別・拠点別の損益が分かるか | 共通費の按分をしていない |
| 人 | その事業だけに従事する人がいるか | 兼務が多い、間接部門が共通 |
| 資産 | 設備・在庫が事業ごとに特定できるか | 同じ建屋に混在している |
| 許認可 | 事業ごとに別の許認可か | 一つの許認可で複数事業を営んでいる |
| 契約 | 取引先との契約が事業単位か | 全社一本の基本契約になっている |
| 屋号・商標 | 事業ごとに看板が分かれているか | 全社で同じ屋号を使っている |
六つのうち、初期段階で最も見落とされるのが許認可です。一つの許認可のもとで複数の事業を営んでいる場合、事業だけを切り出すと許認可が付いてこないことがあります。承継の可否は事前の確認が要る領域で、「許認可が論点になる案件」に整理しています。契約の移転についても、「事業譲渡案件の実務」を参照してください。
仮に切ってみる作業の手順
実際の手順は次のとおりです。所要時間は、資料が揃っていれば半日程度で一巡できます。
- 売上を単位に分ける:拠点別、事業別、取引先の種類別。会社が普段使っている区分をそのまま借りるのが早道です
- 直接費を紐づける:原価と、その単位だけに属する人件費。ここまでで粗利が見えます
- 共通費を仮に按分する:本社費、間接部門の人件費、共有している設備の費用。按分の基準を一つ決めて、必ず書き残してください。基準が残っていないと、後で説明できなくなります
- 貸借対照表側も分ける:その単位に属する在庫、売掛金、設備、借入
- 単位ごとに一枚にまとめる:売上・粗利・営業利益・人員・主要資産。この一枚が、後のすべての議論の土台になります
この段階の数字は概算で構いません。重要なのは精度ではなく、どこで線が引けそうかが見えることです。数字の背景を聞き出す質問については「決算数値のヒアリング」を併せてお読みください。
切り分けにくいものの扱い
どの会社でも、必ず切りにくいものが出てきます。扱いの型を持っておいてください。
- 経営者個人に紐づく売上:社長の人脈で成立している取引。譲渡後に残るかどうかを、取引先ごとに確かめる必要があります。「属人性の高い会社の案件」で詳しく扱っています
- 共通の人員:経理・総務が一体になっている場合、切り出し後にどちらがその機能を持つのかを決める必要があります
- 共有している不動産:同じ土地建物を複数事業で使っている場合、賃貸借に置き換えられるかを検討します
- 経営者個人の資産:社宅、車両、保険。譲渡対象から外すのか含めるのかを早めに決めます。「個人資産と法人資産の切り分け」を参照してください
- グループ会社間の取引:内部取引を第三者との取引に置き直したときに、採算がどう変わるかを見ます
複数の会社を保有している場合の全体の整理は「複数社を保有するオーナーの案件」で扱っています。本稿は一社の中に複数の拠点・事業がある場合の初期整理に絞っています。
仮の結論を、どう返すか
整理した結果をお返しするときの作法があります。一つの案に絞って提示しないでください。複数の案を並べ、それぞれの利点と留意点を添えます。
| 案 | 想定される買い手 | 留意点 |
|---|---|---|
| 全社をそのまま譲渡 | 全体を受け止められる相手 | 候補は絞られるが手続きは単純 |
| 本業のみを譲渡 | 同業・近接業種 | 許認可と契約の移転の確認が要る |
| 不動産を残して事業を譲渡 | 資産を持ちたくない相手 | 賃貸借の条件設計が必要になる |
| 段階的に譲渡 | 関係を作りながら進めたい相手 | 期間が長くなり、条件が変動しやすい |
並べたうえで、「どれがよいと思われますか」と伺い、その場で決めていただく必要はないとお伝えします。一部譲渡や段階譲渡の設計は「一部譲渡・段階譲渡の案件」に整理しています。範囲の決定は、案件の形を決めることであり、経営者の意思そのものです。仲介者が代わりに決めることではありません。