本稿は、経営者の方ではなくM&A仲介の実務者、およびこれから仲介会社で働こうとしている方に向けた実務教材です。企業概要書(IM)をつくるとき、時間の大半は財務のパートに取られます。ところが、買い手が読み込むのは数字だけではありません。組織図・沿革・設備一覧・拠点一覧といった補助資料は、数字が答えられない問いに答えています。すなわち、「オーナーが抜けた後も、この会社は動くのか」です。本稿では、この三つの資料が何のためにあり、どう作り、どこで不備が出るかを型にします。写真・図面の扱いは「現地写真・図面の使い方」、事業パート全体の組み立ては「IMの事業パートの書き方」を参照してください。
補助資料が答えている問い|数字では届かないところ
買い手が決算書から読み取れるのは、結果です。いくら売れて、いくら残ったか。読み取れないのは、その結果がどうやって生まれ、誰がいなくなると止まるかです。補助資料は、そこを埋めます。
| 資料 | 答えている問い |
|---|---|
| 組織図 | 誰が何を担っているか。オーナーが抜けたとき、どの機能が空くか |
| 沿革 | いまの事業がどういう経緯でできたか。何が強みの源になっているか |
| 設備・拠点一覧 | いま使えるものは何か。今後お金がかかるものは何か |
この三つに共通しているのは、どれも「事実を並べるだけ」で作れるのに、作り方次第で情報量がまったく変わることです。そして、作り方を誤ると、良く見せようとしたわけでもないのに実態と違う印象を与えてしまいます。以下、それぞれ見ていきます。
組織図|人数ではなく、機能を書く
会社からもらう組織図は、たいてい役職の箱が並んだ図です。これでは、買い手が知りたいことに答えていません。実務でつくり直すのは、次の形です。
- 部門と、その部門が担う機能(「営業部」ではなく「既存顧客の受注対応と新規開拓」)
- 人数(正社員/パート・アルバイト/派遣・外注を分ける)
- 責任者の年齢帯・勤続年数・保有資格(氏名は書かない。IM段階では特定につながる)
- 兼務:誰が複数の機能を持っているか。ここが承継の論点になる
- 外部委託:経理・システム・配送などを外に出している部分
- オーナーが担っている機能を、明示的に書く
最後の一行が本丸です。中小企業では、オーナーが営業のキーマンであり、金融機関との窓口であり、最終的な品質判断も行っている、ということが普通にあります。これを組織図に書かないと、買い手は「社長が抜けても回る会社」だと誤解します。そして、その誤解はデューデリジェンスで必ず解けます。
オーナー依存を書くことは、会社の価値を下げる行為ではありません。むしろ、依存の中身が具体的に書かれていれば、買い手は引継ぎ期間を設計できます。何も書かれていないと、買い手はリスクを大きめに見積もります。属人性の高い会社の進め方は「属人性の高い会社の案件」に整理しています。
よくある不備を挙げます。
- 実際の指揮系統と組織図が違う(規程上の組織図をそのまま出している)
- 兼務が消えていて、人数の合計が従業員数と合わない
- 個人名がそのまま入っている(個人情報の扱いは「人員・人件費データのつくり方」)
- パート・外注が抜けていて、実際の稼働人数が分からない
沿革|年表ではなく、転換点を書く
会社案内に載っている沿革は、たいてい「◯年 本社移転」「◯年 △△工場竣工」の羅列です。買い手が読みたいのは、いまの事業がどうやってできたかです。次の出来事を拾います。
- 創業の経緯と、当初の事業
- 事業の転換:何をやめ、何を始めたか。そのきっかけ
- 大口取引の開始:いまの主要顧客との取引がいつ始まったか(社名は伏せる)
- 設備投資:大きな投資と、その後の売上・生産能力の変化
- 許認可の取得:事業の幅を決めている許可
- 代表者の交代・組織再編:先代からの承継、分社、合併
- 困難な時期:業績が落ちた時期と、そこから何をして戻したか
最後の項目を入れられるかどうかが、沿革の質を分けます。良い出来事だけを並べた沿革は、読み手に何も伝えません。むしろ、落ち込んだ時期にどう対応したかが書かれていれば、それは経営の再現性を示す情報になります。買い手が知りたいのは、順調だった記録ではなく、環境が変わったときにこの会社が動けるかです。
一方で、沿革は特定につながりやすい情報でもあります。創業年と事業転換の年、拠点の開設年を並べると、同業者には一意に近づきます。IM段階での粒度の調整は「企業概要書で「書かないこと」の決め方」の基準に従ってください。年を「1990年代後半」と幅で書く、拠点名を地域表現に置き換えるといった調整で対応します。
設備・拠点一覧|「あるもの」と「使えるもの」を分ける
固定資産台帳をそのまま貼るのが、いちばんやってはいけない作り方です。台帳には、除却済みなのに残っている資産、遊休設備、個人名義のものが混ざっています。一覧は、次の列でつくり直します。
| 列 | 書くこと |
|---|---|
| 名称・型式・台数 | 型式は特定につながる場合があるため、IM段階では粒度を調整する |
| 取得年・取得価額・簿価 | 台帳と突き合わせる |
| 所有形態 | 自社所有/リース/割賦/賃借(「リース・割賦契約の読み方」) |
| 稼働状況 | 稼働中/一部稼働/遊休/休止。遊休を落とさない |
| 更新の必要性 | 近く更新が必要と見込まれるものを明示する |
| 法定点検・検査の状況 | クレーン、ボイラー、フォークリフト、消防設備など |
| 名義 | 法人か個人か。個人名義があれば論点として立てる |
拠点一覧では、所在地の粒度、所有か賃借か、賃借なら契約期間と更新条件、原状回復義務の内容まで書きます。賃貸借契約に支配権の変更に関する条項があると、承諾取得の工程が必要になります。
ここでも姿勢は同じです。新しく高性能な設備を強調して、遊休設備や更新が必要な設備を落とさないこと。更新の必要性を書いておけば、買い手はそれを投資計画に織り込めます。書かなければ、デューデリジェンスで出てきて価格の再交渉になります。資料は事実を正確に伝えるためのものであり、良い方向にも悪い方向にも同じ基準で書きます。
作り方の手順と、共通する不備
三つの資料に共通する作り方の順序は、次のとおりです。
- 出所のある資料から起こす:組織図は賃金台帳と社会保険の被保険者一覧、沿革は登記簿と社内の記録、設備は固定資産台帳と保険証券。記憶から起こさない
- 現地で確かめる:設備の稼働状況、拠点の実態、人の配置。台帳と現物が合わないことは普通にある
- オーナーに読んでもらう:事実の誤りは、オーナーが読めば分かる。ここを飛ばさない
- 粒度を調整する:特定につながる記述を一つずつ特定し、その項目だけ粒度を上げる
- 更新日を入れる:いつ時点の資料かを明記する。案件は数か月動くので、古いままだと食い違いが出る
最後に、共通して起きる不備をまとめます。
- 時点がばらばら:組織図は前期末、設備は今期の台帳、沿革は会社案内のまま。読み手が突き合わせられない
- 会社案内の転載:対外向けの表現(「業界トップクラス」など根拠のない表現)がそのまま入る。裏づけのない表現は資料に入れない
- 個人情報の混入:氏名、生年月日、住所、給与額。IM段階では区分と属性で書く
- 不利な事実の欠落:遊休設備、更新の必要性、兼務による負荷、オーナー依存
- 数字の整合:組織図の人数と人件費データ、設備一覧の簿価と貸借対照表。必ず突き合わせる
補助資料は、作るのに専門知識をあまり要しません。だからこそ、丁寧に作ってあるかどうかがそのまま見えます。買い手は、資料の精度から、その会社の管理水準と、仲介者の仕事ぶりの両方を読んでいます。想定される質問を先回りする作業は「想定質問リストの作り方」に続きます。